鉄道開通前、明治二年四月に横浜・東京間の乗合馬車を計画、横浜の人が出願したのが乗合馬車のはじめという。それまで、馬車はあったが、それらはほとんど乗客は外国人で、東京・横浜を往き来するに利用されていた。この乗合馬車が好評で、その後、東京・横浜間の乗合馬車営業を出願するものが相ついだという。しかし往来がせまいのに、交通上はなはだ横暴で、一般通行人にずいぶん迷惑をかけたらしい。
明治五年に鉄道が開通すると、東京・横浜間を往来する者は、多くは鉄道を利用するようになっていった。そのため乗合馬車は品川駅前から池上まで、あるいは六郷までといった、むしろ地回り的な乗合に転じていったようである。この乗合馬車も京浜電鉄が明治三十一年開通したため、消えうせてしまったといわれている。
ここで一言すべきは、品川八ッ山より新橋にいたる馬車鉄道が、明治二十七年に着手され、軌道がしかれて、翌年にいたって開通したことである。やがてこれが三十六年八月二十日から電車に変わるのであるが、当初の料金は旧市内の鉄道馬車とかわらなかったという。
こうした品川におけるいわゆる文明開化が、他より比較的早く行なわれたことは、やはり、東京・横浜間の東京への入口といった位置によるものといえよう。