港湾としての品川沖

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幕末から明治維新にかけての品川は港として大きな役割りを演じた。慶喜が軍艦で大阪から逃げ戻って以来、幕府の軍艦が品川沖に碇泊するようになったことは、品川の人々にとって全く驚きで、文明開化の大きな成果をまずみせられたわけである。ことにそれが榎本武揚によって、慶応四年八月十九日艦船八隻もが、品川沖から姿を消して、東北・北海道へ向かって忽然と姿を消したことも、また品川どころか、東京市民全体の驚きであったろう。

 その後も、品川沖は明治政府によって、軍艦の碇泊にしばしば利用されるようになり、軍事的に大きな役割を果たすことになった。

 軍艦の碇泊はまた天皇の行幸にも利用された。はじめは海上交通がはるかに便利な交通機関だった。

 そのよい例は明治天皇の再三にわたる初年の行幸にうかがえる。四年の十一月二十一日には横須賀行幸で、宮城を馬車で出て、品川沖で軍艦に乗られ、二十三日の帰りは再び品川沖まで軍艦でこられ、汽船に乗りかえて浜御殿に到着。五年になっては四月二十八・二十九日の浦賀行幸も同様、五月の中国・西国巡幸も同様で、いずれも軍艦は品川沖にとまり、汽船に乗りうつられている。

 明治五年の十一月の通達をみると、「品海碇泊」の艦船に対して、通船を定め、各艦でこれを雇うことにし、手操船三人乗、大荷足船、荷足船二人乗の料金をきめたが、そのときには龍驤・筑波・春日・鳳翔・第一丁卯・孟春・東一・日進・富士山・雲揚・第二丁卯・大阪・乾行・貯畜などという艦船が碇泊していた。恐らく、東京における品川の海は、こうした艦船の碇泊しているところとして、多くの市民の関心を集めていたことであろう。