品川燈台

124 ~ 125

明治の文明開化の恩恵はまず、品川燈台からはじまるといってよいであろう。明治になって横浜・築地間に海上交通が盛んになり、ことに築地の運上所(税関)との関係上、船が居留地近くの波止場え入ってくる。これに対し、東京湾内に入ってきた船のため、お台場付近に燈台を設ける必要が生じてきた。陸上交通がまだ江戸時代の延長にすぎない状況のとき、どうしても海上輸送に重点がおかれるのは物資運搬ばかりか、一般交通上からもやむを得ないことだった。二年の十二月には、品川県と神奈川県との間に交渉が行なわれ、三年正月より二番台場、普通には第四砲台と称されるところに設置されることになった。

 もちろん、まだ燈台が船舶の出入に、航路上の安全を保つ役割をすることすら知らない人々が大部分であったから、計画・設計・施行すべて「お雇い外人」の手で行なわれることになった。前年の十二月の末には、神奈川県より品川に対して、横須賀製鉄所の首長チホシの指揮のもとに、同造船所首長のウェルニーが主となってやることになり、職人たちをつれて工事にかかるから、品川の宿内に宿泊所を用意してくれとの申入れがあり、旅館を指定、「仮燈明台」とよばれた燈台が、三年の三月五日に竣工するにいたった。一八七〇年の四月五日である。

 三月五日から点火したが、燃料は石油で、不動で赤色とよばれる光をはなち、当時大体九里ぐらいまでは到達したという。燈台は煉瓦造りで、円筒形をなしていた。

 そのうち品川県が廃藩置県で廃止になり、品川は東京府に編入されることになったが、この燈台はとにかく、文明開化のシンボルとして、「東京開化名所」などのうちに必ずとり入れられるほどの名所として、市民に知られるようになっていった。東京湾に入ってくる船舶がこれによってどんなに利益を得たか、文明開化の恩恵ははかり知れないものがあった。明治七年、工部省より配られた各所燈台便覧表によると次のとおりである。

第20表 品川燈台便覧表
燈台通号 設置之地 北緯 東経 初点年月 燈台形質 燈明等級
発光差別
品川 東京港第四砲台 三十五度三十六分三十秒 百三十九度四十五分三十九秒 明治三年三月五日西暦千八百七十年第四月五日 煉瓦
石造
第五等
不動赤色
射光之真方位 標示之真方位 自基礎至燈火 自水面至燈火 光達距離 別記
南六十八度東ヨリ北十八度東マデ 一丈
九尺
五丈
二尺
凡九里 横須賀造船所ニ於テ建築基築造方ウエルニー

 

 品川が目黒川の流出口を中心に、まだまだ海上における港的役割をもっていたことは、明治七年四月品川・鳥羽間の航路が開始されたことからみても、この燈台の存在とあわせて、明治初年における文明開化の一つの姿である。