公立の小学校ができたことは明治になっての大きな変化であり、ここを土台にして新しい明治の空気を吸ってのびていったのが村々の姿だといってよい。しかし区内には明治十八年渡辺府知事巡回視察の当時ですら、大井村に鮫浜小学校、南品川宿に城南小学校、北品川宿に品川小学校があったにすぎない。あとは寺子屋の延長的なものから次第に公立小学校に歩みよった私立小学校的なものが二、三あったにすぎない。多くの家では、南北品川のような農地の少ない町型を呈していた所においてすら、なかなか公立小学校へあげたがらぬ状況で、戸長が説きふせるのに苦労した話が残っているが、それでも、十八年のときの記録では東京府下六郡中、生徒数のもっとも多いのは二九七名の北品川の品川小学校、第二位が向島小梅村の牛島小学校の二二六人、第三位が南品川の城南小学校の二一九名となっている。教員数も品川小が九名、城南小が八名で、牛島小の七名をしのいで一位、二位を占めている。こうした府下六郡の状況をみると、大井の鮫浜小の一三三名、教員三名という、まだ農漁村的姿を示しているのを除いては、どんなに、南北品川の宿が町型で、他をひきはなした姿、いわゆる文明開化的様相において、一歩先んじていたかがわかろう。