農村と新暦の採用

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政府は対外的にも、また外交文書上の日付からも、旧暦をもってすることは不可能に近く、新暦を採用して、欧米列強と円滑に友好を温めようとした。

 明治五年十二月三日をもって、明治六年一月一日とするという布告は全国に発せられ、市民は欧米と等しい暦日を使用することになった。

 しかし、区内村々の人々にとって、これは生活上のあらゆる改変という大きな問題を含んでいた。農村では、農作業はじめ種々の行事はすべて旧暦をもって算出されていて、新暦は到底急にはとり入れることはできなかった。

 しかし、旧暦と新暦の間にはさまれて、次第に村々の農民は、ひと月遅れという妥協案を生活の上での最も合理的な暦日とする方法を生み出していった。四月三日の雛祭り、六月五日の端午の節句といった風に、いずれも月遅れという形での行事が定着していったという。お盆なども、容易に七月にするようにならず、旧暦か、あるは歩みよって月遅れでやる家が大部分だったという。新暦反対組が多かったといえる。新暦の日常的行事を一番早くうけ入れたのは、恐らく町場の南北品川宿の人々だったろう。村方では、なかなか受入れられなかった。

 農村では、品川の宿の人が新暦の元日に正月を祝いにくるので、正月をやり、ひと月遅れという正月の祝いを正式にやり、又旧暦の元旦に近所の人が正月を祝えば、つきあいに正月を祝うというような二重三重の行事といった工合にさえなっていったという。

 田畑を耕作するうえで、全く規則的慣習にまでなっていた月日が、旧暦でなくてはどうしようもなく、これだけは新暦にすぐにはきりかえられず、旧暦ですべてをとり行なうより外は方法がなかったといってよい。