神仏分離の実施

127 ~ 135

品川神社には神仏分離に関する一通の文書が伝えられている。それは慶応四年(一八六八)(この年九月に明治と改元)四月、「神道の総元締である京都白川家の江戸役所が、品川神社の神主小泉帯刀に宛てて出した文書で、冒頭に「別紙の天朝(新政府)より出されたご沙汰の趣を心得てほしい」という旨の書状がつけられていて、そのあとに神仏分離の実施についての通達の内容が詳細に記されている。

 その第一は「辰二月」と公布月の入っているもので、慶応四年二月公布のものと考えられ、つぎのように記されている。

此の度王政復古

神武創業の始に被為基諸事御一新、祭政一致の御制度に御回復遊され候に付いては、先ず第一、神祇官(じんぎかん)御再興御造立の上、追々諸祭典も興される儀、仰せ出され候(中略)

普(あまね)く天下の諸神社神主袮宜祝部に至る迄向後、神祇官附属に仰せ渡され候間、官位を始め諸事萬端同官へ願立候様 相心得る可く候事(後略)

 辰二月

つまり王政復古にあたって新政府の基本方針として祭政一致の古制に復することとし、大宝律令(七〇一年制定)の官制であった神祇官を復活させ、国事としての祭典を漸次実施し、国中の諸神社の神主や袮宜たちは今後神祇官の指揮下に置くという趣旨である。

 ついでこの年の三月に公布されたものとして、

此の度、御一新に就き、石清水、宇佐、箱崎等、八幡大菩薩の号を停(とど)めさせられ、八幡大神と称し奉る様、仰せ出され候事。中古以来、某権現或いは牛頭天王抔(ごずてんのうなど)と称し、其の外仏語を以て神号に相称え候社少なからず候。何れも其社の由緒に基ずき称号相改め申す可き事。(中略)仏像を以て神躰と致し候神社、以来相改め申す可き候事。

 附、本地抔と唱え、仏像を社前に懸け或いは鰐口、梵鐘、仏具等の類(たぐい)差置き候分は、早々に取除き申す可く事

 辰三月

 以上のような通達が記れている。要訳すると、神社に祀る八幡大菩薩は今後八幡大神と称すること、神号で何々権現あるいは牛頭天王など仏教の教理にもとづいて名付けられたものは、その神社の由緒によって別な称号に改めること。さらに仏像を神体として祀ったり、本地仏として仏像を社殿に掛けることを禁止し、鰐口、梵鐘その他の仏具は早々に取除くべきであるということが指示されている。

 さらに同じ月の通達で、諸国の大小の神社を管掌している別当とか、社僧などと呼ばれる僧形の者は、僧籍から離脱して復餝(ふくしょく)つまり髪をのばすことを命じており、そして翌翌月の閏四月には、別当や社僧で仏教を信仰するため還俗(げんぞく)できない者は、神前への奉仕はやめ、神社から立ち退くことを指示している。

 このほかにも前記の通達を補足するいくつかの通達が記されているが、これらの各条項はいづれも太政官布告、神道事務局達等によって公布されているものである。

 このような通達によって断行された神仏分離は、いままで幕府の庇護をうけ、宗門人別改(しゅうもんにんべつあらため)という政治的特権のもとに安住の座にいて、神仏融合の思想によって神社までもその支配下に置いていた仏教寺院や僧侶に対して、その下風に立っていた神道家の失地回復運動が、明治新政府の王政復古の理念と合致して行なわれたもので、これによって仏教寺院は、従来持っていた各種の特権を取上げられ、寺領は公収され、一時期窮乏への途をたどってゆくのである。

 東京(明治元年十月までは江戸)でも神職たちの新政府に対する働きかけはあったものと考えられ、当時の品川神社の神主小泉帯刀もその推進役の一人であったようである。

 品川神社所蔵の小泉帯刀が当時関係官庁へ提出した文書の控を記した「御新政後記録」二冊には、このときの帯刀の行動が詳細に記されている。帯刀は神仏分離の政令が公布されたという白川家江戸役所からの知らせを受けるや、直ちに神祇官に願書を提出している。すなわち慶応四年四月提出の願書には、このたび神社に奉仕する別当や社憎が復餝を仰せつけられたが、本郡(荏原郡)中の村々の鎮守は数多くあり、中には、旧社もあるが、これが一村だけの鎮守であるため村からの補助もなく、そのため社人もいないので、たいていは寺がこれを管理している。これらの寺の僧侶は死者を扱かっているので、このような人たちの復餝は認めるべきでない。そして荏原郡中の神社のうち、神主や別当のいない神社を自分に兼帯させ奉祀をさせてほしい。そうしたならば江戸市中およびその近在には、神職と称して諸社の神楽(かぐら)や、家々の竈神拝みなどを勤めて生活をしている者が数多くいるので、これらのなかから充分調査の上、いかがわしい者を除き、適任者を選任して自分の配下とし、六ヵ村に一名づつ配置して村社の管掌をさせ、この者たちには日常は文武の道を教え、境内の掃除や神饌の献供等をさせておき、各社の神事を行なうときは、郡中のこれらの社人を集め、自分がその中心となって神事、祭祀を勤めよう。このような態勢が諸国につくられ指導的な神主にこれをまとめさせることによって、仏像や仏器の廃棄も進み、神仏分離が促進されるものと考えられるということが記されており、さらに帯刀は次のような提案をしている。郡中の神社のうち神主や死穢に携わらない社僧が常時奉仕しているのは十社だけで、このうち神主が常時いるのは品川神社を含め四社のみである。そのため神事に仏事が混っていたり、神器と仏器の差別がついていなかったりしている。神主のいる神社でも仏事を混じているということを聞いている。そこで神社の神体や仏器の調査を私に命じてほしい。境内に鎮守と称する社を置いている寺が多くあり、これらの神体は大抵仏像であるので調査の上社号を仏号に改めたり、仏像でない神体は近くの神社に合祭してあとは取毀すか、仏堂にするか寺の希望に委せるようにしてはどうかという内容である。


第19図 慶応4年白川家江戸役所が品川神社神主小泉帯刀に宛てた文書

 またこの年の八月小泉帯刀は鎮将府に対して、荏原・多摩・橘樹(たちばな)三郡にわたって所在する延喜式内社の社名をその社号としている神社の真偽を糾明すべきことを訴え、その調査機関の設置を要望し、さらに復餝した社僧に対する神拝祭祀の作法指導役の任命を提案し、あるいは渋谷豊沢村に住居する神職で、神社を持たず、江戸市中あるいは近傍に祈祷檀家というものをもって、その依頼で神楽・竈神祭・正五九(正月五月九月)の配礼等をして生活している神職三〇人に、従来仏寺の兼帯していた荏原郡中の神社を、一人二、三ヵ村づつ兼帯させることを許可してほしいということを請願している。

 このように小泉帯刀は、神仏分離の方針が打ち出されるのをまっていたかのように、機敏な行動をとっている。

 この「御新政後記録」の冒頭に「浅草白川殿役所より、幸便之れ有り候由に付、京都御本官へ願書差出す。古川美濃守へ書状を以て取扱い相願い、平田翁へも拙書出す。願書左の如し、但し半紙へ認(したた)め出す。」と記されており、このなかにある幸便とは、前記の諸通達を記した白川家江戸役所からの通知と考えられ、帯刀は神仏分離の実行を白川家からいち早く知らされ、即座に行動に入ったものと考えられる。この書中に見える平田翁とは、当時排仏論者の指導的な立場をとっていた平田延胤(ひらたのぶたね)らしく、帯刀はこのような人たちと交わりながら、城南地区の神仏分離の急先鋒として活躍したものと想像される。

 小泉帯刀がとった前記の働きかけがどのように効を奏したかわからないが、しかし帯刀の行動は新政府の認めるところとなった。それは品川神社が、東京の市内九社とともに准勅祭社とされたことである。

 明治元年(一八六八)十一月七日、品川神社神主小泉帯刀は東京府社寺局より明八日神祇官に出頭するよう通達を受けた。この日呼出された神主は、小泉帯刀を含む東京府内の神社の神主一〇名で、つぎのとおりである。

 芝神明社神主  小泉大内蔵    駒込白山神社神主  中井伊織

 日枝神社神主  樹下内膳     品川神社神主    小泉帯刀

 根津神社神主  伊吹左京     富岡八幡社神主   富岡栄

 神田神社神主  芝崎美作守    赤坂氷川神社神主  斎藤織部

 亀戸天神社神主 大鳥居信教    王子神社神主    大岡兵庫

 この一〇名の神主は一名づつ神祇官判事植松少将の前に出て、それぞれの管掌する一〇社が、准勅祭社として神祇官の直接支配を受けることを申渡された。


第20図 神祇官通達書

 十一月十五日、神祇官植松判事は官幣使として品川神社に参向し、参拝ののち幣帛料五、〇〇〇匹が神社に献じられた。当日植松判事は、書記田中奥太郎を随えて芝神明社より品川神社に参向し、神社側では社人石川土佐と和田舎人(とねり)、それに稲荷門前の家主一同が八ッ山まで出迎えに出た。神主小泉帯刀は門の内側でこれを迎え、袮宜岡本右京・滝織部は階段下でこれを迎えた。参拝後、官幣使植松判事は神主宅で休憩し、帯刀は和歌三首を詠んでこれを献じ、植松判事はこれに詠歌で答え、帰庁した。

 翌十六日帯刀は自ら神祇官役所に赴き、官幣使参向の礼状を提出し、同月十九日には、名代として袮宜の滝織部を武蔵知県事役所に派遣し、知県事古賀一平宛てに官幣使参向の報告と、礼を兼ねた書状を提出している。

 前記の小泉帯刀の新政府に対する運動が効を奏したのか、明治二年(一八六九)神祇官は前述の一〇人の神主に、市中の諸神社の神仏分離の実情を調査することを命じた。小泉帯刀は、芝神明社の神主西東修理とともに、東京市中の東南方の調査を担当し、この年の三月、神祇官宛てに、調査区域の三三社についての報告書を作成し提出した。このなかに品川区内の神社としては、永峰町鎮守八幡社(上大崎二丁目、誕生八幡神社)・品川台町忍田(しのだ)稲荷社(東五反田三丁目、袖ケ崎神社)・同町雉子宮(きじのみや)(東五反田一丁目、雉子神社)の三社について、その状況が記されている。雉子宮の神主は、隣接の別当寺宝塔寺の住職であったが、神仏分離令によって復餝した者であって、この報告書では、神主左近は復餝後七宝塔寺に住居している様子であると指摘し、また忍田稲荷社には、神前に仏像が安置されていることが報告されている。

 このように小泉帯刀らの神仏分離推進者たちは、新政府の指示によって「諸神社今以て仏事混淆相止めず、未だ復餝致さざる者も相聞き候」(品川神社所蔵「御新政後記録」一)ということの実情調査にあたり、その徹底に一役買っているのである。

 神仏分離が区内ではどのように実施されたか、すべての神社についての状況を示す史料は遺っていないが、一、二の神社での実施状況を品川神社文書によって見てみると、慶応四年(一八六八)八月、小泉帯刀は早くも鎮将府に対して、品川歩行新宿三町目にある谷山(ややま)稲荷社は、同地の善福寺(時宗)の管理下にあったが、今回同寺の住職から、よろしいようにしてほしいという申出を受けたので、どう取計らったらよいか、また戸越村の鎮守八幡宮(戸越二丁目八幡神社)は、隣接の行慶寺(浄土宗)が別当をつとめていたが、別に自分の配下である祢(ね)宜山田小膳が神事を行なっているので、いうなれば二者が共同でその守護に当たっていたわけで、今回小膳から、自分単独の持ち場としたい旨の申出があったが、どう取計らったらよいかということを照会しており、結局は新政府の方針に基づき、両社とも品川神社の所管と決まったわけである。しかし、決まったのは翌明治二年から三年にかけてで、明治二年一月、戸越村の年寄紋左衛門らは、品川神社の社司(神主)に宛てて、このたびの御一新の趣意に基づき、戸越村の鎮守八幡社は行慶寺が守護することをやめ、品川神社の社司の所管として、すべて引渡しをするとして、村方一同このことについては、何らの故障をも申立てしない旨の一札を入れており、また明治三年七月、谷山稲荷社の世話人半七郎と半次郎は、品川神社の社司に宛てて、御一新ゆえ、善福寺と手切れの上、品川神社の管掌下に入り、万端よろしく願いたいという旨の一札を入れている。

 このように従来寺院の管掌下にあった神社はすべてその所管を離れて、世襲神職の小泉氏や、山口氏(忍田稲荷社神主)などがこれを兼務する形にかわり、またこれらの神社に袮宜として勤務していた者が派遣されて神主となったり、寺の住職が還俗して神主となり、各社にすべて神職が置かれることになるのである。

 神仏分離はさらにエスカレートして仏堂を破却し、仏像や仏具を仏堂から放棄する廃仏棄釈に進展したが、品川区の地域では目立った廃仏棄釈の動きはなかったようである。

 しかし神仏を明確に分離するために、神社と寺院との間で、土地や建物の帰属や使用をめぐっていろいろな交渉や紛争は発生したようで、この場合、おおむね寺院側の一歩後退によって事は落着したようである。

 明治三年(一八七〇)一月二十三日、品川神社神主小泉勝麻呂(帯刀)は神祇官に対して、品川神社門外の通路は東海寺の大門道であるため、神輿渡御や、毎月の玉串献上などには仏地を通らなければならない。不都合であるので昨二年春に通路の改革をしてほしいと願書を出したが、そのままになっていると訴え、神地と仏地の境界を明示するなどの善処方を要望した。

 二月七日、神祇官からこの件は品川県に願い出るよう申渡しがあったので、改めて仏地通行の不都合を品川県役所に訴えた。

 品川県では神主小泉勝麻呂を呼出してその言い分を聞き、四月二十五日に三島少属を現地に派遣し、東海寺の役僧、それに関連する善福寺と法禅寺の僧、そして宿役人が立会って実地検分をした。東海寺は大門道のうち、中門外より黒門までの地所の上地(公有地とすること)を了承して、神輿の通御はいうまでもなく、往来同様に通行しても差支えないという一札を品川県役所に入れ、品川神社側もこの区域が往来になったからは、葬式等の通行は差支えないとの一札を品川県役所に入れ、この一件は落着している。

 かつて徳川将軍家の庇護を受けて権威を誇っていた東海寺も、神仏分離以後は、国の神道中心政策を背景とした神社側の要請を、そのまま受入れざるを得ない状況になったのである。