品川神社境内の東南端、第一京浜国道に面した一隅に築山がある。これは冨士山になぞらえて造られたもので、俗に「品川冨士」と呼ばれている。
そこに建てられた根府川石の碑に
明治二年己巳五月冨士山
遙拝所并浅間社築造功成 前大先達再勤 発起人 大橋多久美藤原[ ]
講中三百余人
と刻まれており、碑文によれば、この品川冨士は明治二年(一八六九)五月、冨士講中三〇〇余人の力によって築造され、冨士山の遙拝所としたものである。これについては、つぎのような文書が品川神社に伝えられている。
奉伺候覚
一御本社辰巳之方ニ有之候大国主神社ヲ丑寅方ヘ引移シ、西之方ニ有之候浅間神社ヲ辰巳之方ヘ相移シ、右浅間社之傍ヘ築山造立度奉存候ニ付、絵図相添奉窺候以上
巳二月 品川神社神主 小泉帯刀印
神祇官
御役所
これによるとこの品川冨士の築造にあたって、品川神社の神主小泉帯刀は神祇官に伺いをたてており、神祇官はこれに対して許可を与えている。
人造冨士は江戸時代の後期から、江戸市中やその近郊に数多くつくられているが、冨士山を信仰する人たちの集まりである冨士講の講員が、その信仰の対象として造ったものである。
この年の五月に神主小泉帯刀は
奉伺候覚
来六月朔日末社浅間社祭祀之節、冨士講中と唱へ参詣仕候向、念仏経文等相誦候儀、社門之内者堅禁止仕参詣為致候而、不苦候哉、且途中念仏相唱候儀者、難差止候間、講中参詣之儀相禁可申哉 右為念奉伺候以上
巳五月 品川神社神主 小泉帯刀印
神祇官
御役所
以上のような伺いを神祇官に提出し、冨士講中が境内で念仏や経文を唱えないことを前提に、参詣を許可すべきかどうかを諮っている。これに対して神祇官は、境内で念仏を唱えないことを条件に参詣を認めている。冨士講の教義は本質的に神仏混淆であり、旧六月一日の山開きに講中が、この人造冨士に登拝し、「かけ念仏」という経文を唱和したり、「拝み」と称する祈祷を行なうにあたって、そのなかの仏教的色彩を忌避したものであろう。
神仏分離が民間信仰にどういう影響をもたらしたかをこの出来事によって知ることができる。