教派神道の成立とその発展

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江戸時代の末期から明治初期にかけては、多くの神道的民間宗教が発生し、混乱期の民衆の動揺をたくみに把え、その要望に答えながら成長していった。そして前時代の仏教中心の宗教政策に代わって登場した神道中心の宗教政策にも、その教理と体制を合わせ、新しい宗教団体として発展するのである。

 これらの民衆を基盤とする宗教には、三通りのパターンがある。

 その一番目は近畿・山陽地域に農村を基盤として発生した宗教で、特定の教祖を中心として発展しているのがその共通した特色である。

 二番目は江戸時代に既にその基盤が形成されていた山岳信仰の諸団体を糾合して組織化したものである。

 三番目は山岳信仰に限らず、各種の民間宗教や教化組織を結集したもので、前二者は神道国教化政策に即応した教義をたてて、宗教団体として整備していった点共通している。

 第一番目のパターンに属する民衆宗教としては、天理教・金光教・黒住教などがある。この系統に属する宗教は発祥地が近畿・中国地方であるため、東京へは比較的遅く進出している。

 天理教は大和国(奈良県)に生まれた中山みきが天保九年(一八三八)に開創したもので、大和国を中心に広まり、明治十年(一八七七)以降、全国的に発展した神道系の民間宗教で、人間・世界を造った親神天理王命(てんりおうのみこと)は、教祖中山みきを神の「やしろ」として、その口を通じて思召を人間世界に伝えるとするもので、その思召とは人間生活の目標を「陽気ぐらし」とすることである。

 天理教が東京に伝えられたのは明治十二年(一八七九)ごろと伝えられているが明らかでない。史料の上では、明治十八年(一八八五)、上原佐助が大阪から上京して布教を始めたのが、最初といわれている。その後上原の東京布教の信者第一号、芝山内の茶店の経営者吉野金次によって、明治二十年ごろ芝講社がつくられ、明治二十二年(一八八九)芝支教会となった。品川区でも芝支教会の影響をうけて入信する者があったことが想像される。

 品川区内で最も古い天理教会は、南品川六丁目にある都南分教会で、この教会は現在の場所に都南布教所として明治四十一年(一九〇八)に設立されている。都南布教所は明治三十九年(一九〇六)十月、京橋区木挽町より荏原郡品川町二日五日市一二四番地(現在の南品川六丁目)に移り住んだ千田兼次郎が、近くに住む薬店の経営者塚原市太郎の入信を得て、その所有地の提供を受け、現在の場所に設立したものである。以来千田兼次郎は次第に教線を拡大して信者の数をふやし、大正三年には塚原市太郎は、芝区三田綱町に南道宣教所、豊多摩郡淀橋町に南明宣教所を設立し、漸次このような部属教会を増加させて、現在は直轄分教会二四を含む六五の分教会を傘下におく教会となっており、分教会といっても大教会の規模を有している。

 金光教は文化十一年(一八一四)に備中国(岡山県)浅口郡占見村の農家の子として生まれた川手文治郎が、安政六年(一八五九)に創唱したもので、文治郎がこの年「金神(こんじん)」から世間の難儀の人々を救ってやってくれという知らせを受けて、取次ぎつまり布教を始めたといわれている。その後次第に信徒がふえ、岡山周辺から中国・四国・九州地方に広まり、さらに大阪に進出して布教が行なわれた。

 金光教が東京に進出したのは明治二十一年(一八八八)五月で、畑徳三郎が東京四ッ谷(新宿区)で布教を始めたのが最初で、品川区の近くには明治二十四年(一八九一)九月、大場吉太郎によって芝支所が開設され、同二十五年(一八九二)九月和泉嘉右衛門によって白金支所が開設された。芝や白金(いづれも港区)に金光教の布教施設ができたことによって、区内にもかなりの信徒があったということが推察される。品川教会が設置されたのはさらに降って大正八年(一九一九)二月二十一日である。

 第二番目のパターンは、冨士山の信仰にもとづく扶桑教・実行教・丸山教があり、木曽御嶽の信仰にもとづく御嶽教などがある。

 扶桑教は冨士講がその母体である。江戸時代に、江戸やその周辺の農漁村に多くの講がつくられたが、幕府はその勢いが民衆運動化することを恐れて、安永四年(一七七五)に冨士講の徒が呪文・奉加・焚上(たきあ)げ(護摩に似た祈祷)を行なうことを禁じ、その後何回も禁令が出て、嘉永二年(一八四九)にはその活動を厳禁した。

 明治に入って薩摩藩出身の宍野半(ししのなかば)は教部省の役人として宗教行政に関与していたが、のち冨士講が度重なる弾圧によって窮乏におちいっていることを知り、これを糾合して一つの教派を設立することを考え、冨士山における神仏融合の要素をすべて排斥して、冨士一山講社を結成した。

 明治七年(一八七四)には当時呪術行為を行なうということでたびたびの取締りを受け苦境にあった丸山講を吸収して扶桑教会と改称し、さらに明治十五年(一八八二)扶桑教と称した。

 丸山講は宍野半の死後、明治十七年(一八八四)に扶桑教から離脱し、丸山教となって今日に至っている。

 品川区内には数多くの冨士講があったが、そのほとんどは明治以降扶桑教の傘下に入っていたようである。

 それは他の教派が、傘下の講にその掲げた教義に基づく教典の使用を励行させ、祭事・儀式に所定の方式を順守することを要請するなど、強い拘束を与えたのに対し、扶桑教は仏教系の思想を排除した教義を打出してはいるが、宍野は仏教色の強い冨士講の本質と、講員の固守する呪術的な要素を完全に否定することが不可能と知って、傘下の講中が「焚上げ」を行なうことや、旧来の神仏習合的な経文「お伝え」の読誦を黙認したので、従来の要素の容認と、大組織の傘下に入っての講の保護が受けられることを願って加入する講が多かったものと推察される。

 品川区内で扶桑教に所属した冨士講がどのくらいあったかは明らかでない。明治十年(一八七七)に芝区神明町(港区浜松町)に置かれた扶桑教本部の敷地内に、冨士山を模した築山が築造されたが、この築山に各冨士講の碑が建てられている。


第21図 富士登山道(品川富士)

その写真を見るとこのなかには品川〓元講(しながわやまもともとこう)、品川〓元講(しながわやませいもとこう)、御林〓清講(おはやしやませいこう)の碑があり、これら品川や御林(鮫洲)の冨士講が明治期に扶桑教の傘下にあったことを知ることができる。また現在扶桑教大教庁(世田谷区松原一丁目)の神殿に供えられた数多くの木製高坏(たかつき)は、明治期に南品川の青物横町(南品川五丁目)の青物講(あおものこう)が寄進したものといわれ、「青物講」の金文字が記されている。明治期にこの地域のおそらく青果問屋の人たちの結成したと思われる、青物講と呼ぶ冨士講のあったことを物語っている。

 第三のパターンに属するもので、明治前期に設立され、関東地方に主体を置いた教派には神習教(明治十四年設立)、神道修成派(明治六年設立)、大成教(明治十二年設立)、神道本局(明治十九年設立)などがある。これらの各教派は既成宗教の集合体である神道本局を除いては、創始者の唱える国家神道的教義を打出してはいるが、成立にあたって山岳信仰の各講をも吸収しているので、ここにも山岳信仰的要素が織込まれていることも一つの特色である。これらの各教派は、本区のなかでも当然布教活動は行なったものと考えられるが、その実情は明らかでない。ただ大成教については、金石文によって区内における動きを知ることができる。

 大成教は幕臣であった平山省斎(せいさい)が明治十二年(一八七九)に多種多様な民間の信仰組織や教化組織を結集して、大成教会を設立したのがその始まりで、明治十五年(一八八二)に大成教として一派を創立した。この大成教会には多くの御嶽講が加盟し、教会内で大きな勢力をなしていた。

 御嶽講は木曽御嶽の信仰団体で、江戸時代の末には関東・中部・近畿地方の各地に多くの講が結成されていたが、明治維新後、大成教会・修成講社(のちの神道集成派)・神習講社(のちの神習教)などの各教団に分散して属していた。

 東京浅草で油商を営み、御嶽行者をしていた下山応助も、多くの御嶽講を結集して明治六年(一八七三)御嶽教会を組織し、大成教に所属していた。その後、下山応助は一派独立をはかり、毎年木曽御嶽に出張し各講社を説得して信徒に加え、明治十五年(一八八二)九月、大成教の創立より四ヵ月遅れて独立し御嶽教を創立し、管長は大成教管長平山省斎がこれを兼務し、下山応助がこれを補佐した。

 北品川二丁目品川神社の境内にある末社御嶽神社の傍らに、表面に

 八海山国狭槌大神

御嶽山国常立大神

 三笠山豊斟主大神

  正四位 山岡鉄太郎謹書

と刻まれた根府川石の大きな石碑がある。この碑は品川の御嶽講である三笠山元講が建てたもので、その碑背につぎのように刻まれている。

  三笠山元講先達保川翁勤行碑

□名作兵衛保川氏安房国北条邑産也。二十歳時□居於武蔵国品川。翁幼慕行者風、及長入三笠山諾□修、天保九年戊戌年二十二、登於木曽御嶽修行、登嶽者以盛夏之候、為期嶽距家八十五里、毎歳期至必率徒登焉、不避風雨不厭炎熱、抛棄世事耐忍痛苦、勤行彌固歴年四十七登亦四十七回、其徒靡然慕風従者三百人、翁之先達大成教管長鴻氏感其為志、薦補権少講義、翁七十歳矍鑠益壮令、茲四月□徒相謀建碑於品川天王山、以傳事跡于不朽鳴□翁僻陬小民勤行超特至誠感神遂補教職偉矣哉。

 明治十八年四月                                   桂潜太郎撰

                                           三笠山元講建之

 この碑文によると、品川に住んでいた保川作兵衛という人は、天保九年(一八三八)以来毎年一回、夏に風雨炎熱をいとわず木曽御嶽山に登山して修行すること四七回に及び、その率いる講に加わるもの三〇〇人にも及んだので、大成教二代管長鴻雪爪はこれを賞して、作兵衛を権少講義に補した。明治十八年(一八八五)に七十歳を記念して、この碑を天王山つまり品川神社の境内に建てたということが記されている。

 このころ、品川の三笠山元講は、保川作兵衛という熱心な先達の指導のもとに、信仰ならびに登山を行なっており、大成教に所属していたことがわかる。しかしこの三笠山元講も御嶽教の所属に転じ、現在に至っている。