プロテスタント宣教師との接触

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開国後における品川住民のキリスト教との出会いは、神奈川に来住しその後横浜に移ったアメリカ長老教会のJ=C=ヘボンとの接触にはじまった。幕末のころ北品川陣屋横町に住んでいた医師菅沼立慶(すがぬまりゅうけい)は、ヘボンとの交遊から、キリスト教信仰に接したといわれている。ヘボンは、一八六一年(文久元)春、神奈川の宗興寺に施療所を開設し、一時それを閉鎖したが、横浜居留地にそれを再開、一八七九年(明治十二)まで継続している。この施療所には、日本人の患者ばかりでなく、西洋医学の習得をのぞむ日本人青年が集まり、ヘボンはこれらの日本人にキリスト教を説き、伝道用文書を配付した。おそらく菅沼とヘボンの出会いも、このようなものであったにちがいない。菅沼は、キリスト教禁制のもとでキリスト教関係文書を所持すれば、その身に禍いが及ぶと考え、文書を品川の海に棄てたと伝えられている(『品川町史』下巻五二七ページ)。

 一八六八年(慶応四)に発足した維新政府は、「切支丹邪宗門の儀は、是迄の通り堅く御禁制なり云々」という禁令を設けたが、外国公使からの強い抗議を受け、切支丹禁制と邪宗門禁止とを別々にして高札を掲示した。


第22図 新政府の切支丹禁制の高札

 明治にはいってからも、品川の高札場には、この高札が立てられていた。その間、長崎の浦上キリシタンに対する弾圧事件をはじめとし、プロテスタント関係においても、小島一騰(こじまいっとう)・清水宮内(しみずみやうち)・市川栄之助(いちかわえいのすけ)らの捕縛・迫害事件が、明治五年ころまであいついで起こり、国際世論を刺戟した。