教会形成への胎動

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品川橋の北西のたもとにあった品川宿の高札場から、キリスト教禁制の高札が撤去されたのは、明治六年二月の末であった。諸外国からその宗教政策を非難された新政府は、キリスト教禁止はすでに熟知のことであるから、掲示の必要はないという名目で、高札撤去を指示したのである。その結果、キリスト教は黙認された形になったが、そのころ、南品川の荏川町に住む医師藤井某は、自宅において、堀口孫次郎(ほりぐちまごじろう)らを誘ってキリスト教の集会を開いた。この荏川町集会(土岐和夫編『日本基督教団大井町教会小史』(一))は、品川におけるプロテスタント教会形成の端緒となったが、この集会を指導したのは、戸田忠厚(とだただあつ)と安川亨(やすかわとおる)(右城(うじょう)と号し、高橋六郎とも名のった)であった。このふたりは、東京基督公会(明治六年九月二十日設立の東京最初のプロテスタント教会)の初代信徒であった。

 これより先、明治五年三月、日本最初のプロテスタント教会として横浜に日本基督公会が設立された。その当時から、教会指導者の間には、欧米における教派的分裂の弊害をさけようとする無教派主義が支配的であった。しかし一方では、外国の教派の指導下に立って、教派的特徴を生かそうとする立場も抬頭してきた。そのあらわれとして、アメリカ長老教会伝道局の指令によって生まれた日本長老会(明治六年十二月)の管轄下に、横浜の住吉町教会がはいり(明治七年十月)、さらに無教派主義に立っていた東京基督公会から脱会した一部の信徒たちは、長老主義を受けいれて東京第一長老教会をつくった。(明治八年一月)荏川町集会で布教活動をおこなった戸田と安川は、八年二月にこの東京第一長老教会へ移籍し、しかも両者は、同年四月、長老会においてキリスト教教師を志願し、教師試補に任じられた。かれらの教派主義への転向は、新島襄の感化だといわれている。

 これらの背景のもとに生まれ育った荏川町集会は、さらに一歩を進めて、八年には青物横町(あおものよこちょう)説教所となった。すなわち、同年菅沼立慶は青物横町に移り、同町の岡見辰五郎(おかみたつごろう)宅二階が説教所にあてられた。そこでの布教の中心は、長老教会派遣の宣教師C=カロゾルスであり、九年四月ころまで伝道に従事した。この説教所に集まった者のなかから受洗者が出、教会創立の気運がしだいに熟していった。

 当時キリスト教に対しては、江戸時代以来の偏見がつづき、その布教は決して容易ではなかった。しかし、神の前における人間の平等を説くその教えは、新しい人間観を覚醒させるものとして社会の一部に歓迎され、またその峻厳な倫理的態度に共鳴する者も少なくなかった。これに加えて、文明開化の風潮は、西洋の宗教としてのキリスト教への好意的態度を促進した。品川でのキリスト教の比較的順調な受容は、以上のような事情に基づくものであった。