品川教会の設立

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明治十年四月十一日、岡見辰五郎宅において、品川教会が創設された。当時のキリスト教週刊誌『七一雑報』は、この教会の創立について次のような記事を掲載している(二の十四、明治十年四月六日)。

 

 東京府下品川は青楼酒旗花街(はなのいろまち)の中にてもおさ/\他処にもをとらぬ駅なるが近ごろ其中に大光(おほいなるひかり)の死蔭(しのかげ)を照すあつて已(すで)に来る四月初旬には東京第二長老教会と名(なず)くる耶蘇の一致会を開くよし之(こ)れは米国の伝道師カロゾルス氏之(こ)れを種(う)へ同グリエン氏之れに灌(そそ)ぎ信徒には菅沼、井口(ママ)、梅田、岡見、其余数輩の尽力によりて此の挙に至ると実に真神の鴻恵豈(めぐみあ)に喜こばしき音信(おとづれ)にあらずやと或人よりの報知(しらせ)

 

 『七一雑報』が、品川教会を「東京第二長老教会」としているのは、その布教上の背景からいって当然のことである。カロゾルスは明治九年四月、東京第一長老教会から分離して日本独立長老教会を創立し、同年五月には文部省御雇教師として広島英学校に赴任しているので、かれに代わって、長老教会宣教師O=M=グリーンが布教を担当し、東京第一長老教会(芝露月町教会)の仮牧師を兼ねて、品川教会の仮牧師となった。長老には鈴木清作(すずきせいさく)と堀口孫次郎が選ばれた。なお教会創立当日の説教は安川亨が担当し、創立当時の教会員数は、男一一、女六、小児六、計二三名であった。

 同年六月十一日には、品川教会は日本長老教会管下にはいり、品川長老教会となった。しかし同年十月三日には、従来の無教派主義と長老派とが一致統合して、日本基督一致教会となったので、品川教会も、それに所属することとなった。したがって、日本基督一致品川教会というのが正式な名称であった。

 教会創立以来一年足らずで、礼拝出席者が増加したため、おそらく六畳ほどであった岡見宅の一室では狭隘となり、教会堂建設の必要が教会員の間で問題とされた。十一年三月、品川宿大字二日五日市村字東浅間三二四番地(現在の南品川二丁目五番四~六号)に瓦葺木造平家建、普通民家風の教会堂が竣工、礼拝堂は四坪、他に玄関・台所・廊下があった。この建物は、明治二十年以降「武蔵屋」という旅館となり、第二次大戦末期まで残っていた。

 教会堂の建築は、当時の教会員の財力では決して容易なことではなかった。総費用五三九円八二銭(内土地購入費一二〇円)のうち外国ミッションの援助を受けたのは、二二〇円であり、その他グリーン宣教師から五円の献金があった。残額は、すべて教会員の献金に負うたが、一一三円五七銭の不足金が生じ、教会員の梅田源左衛門がこれを立替えた。その後有志の献金と(岡見清致六〇円・梅田源左衛門一五円)と教会集金によって、立替金を漸次弁済していったが、十五年九月に致ってようやく完済された。

第21表 品川教会・青物横町会堂新築のための献金額
氏名 金額
築地外国人 220円
グリーン 5円
岡見清致 100円
梅田源左衛門 50円
鈴木清作 5円
菅沼立慶 10円
今井清三郎 20円
鈴木甲次郎 6円
堀口孫次郎 5円
清水伊勢松 5円
鈴木大角 25銭
426円25銭

(「日本基督一致品川教会会計帳」より)