品川教会創立と同時に仮牧師に就任したO=M=グリーンは、一八七四年(明治七)来日のアメリカ長老派宣教師であり、明治十一年六月に安川亨が品川教会牧師に就任するまで同教会の仮牧師であった。十三年八月病気のため帰米し、翌年末、フィラデルフィアのプレスビテリアン病院で永眠した。その在日期間は短かかったが、安川・戸田とともに千葉県下の農村に布教活動をつづけ、洗礼を授ける資格のある日本人教師がなかった当時、すべてグリーンが洗礼を授けた。
安川亨は、十一年六月八日に牧師就任式をおこない、十二月九日まで品川教会の牧師をつづけた。かれは千葉県下総の法典村の豪農安川家の分家に生まれ、早くから東京・横浜に出てキリスト教に接し、はじめギリシャ正教を聴き、カトリックについても学び、六年八月東京でタムソンから受洗した。当時かれは高橋姓を名のり、司法省に勤務していた。その後東京基督公会から東京第一長老教会に転じたが、十一年四月から右教会の改名した芝露月町教会の牧師となり、同教会と兼牧の形で品川教会の牧師となった。安川の郷里法典に、八年十二月いちはやく教会が形成されたのは、かれの努力の結果であったが、その後、安川は、みずから正統的信仰からドイツ普及福音派の信仰に転じ、それとともに法典教会も二十三年同派の所属にかわった。
安川についで品川教会牧師となった戸田忠厚は、嘉永元年十二月二十五日武州忍(おし)藩士水谷岩右衛門の次男(幼名丑五郎)として生まれ、後に幕臣戸田家の養子となった。かれは早くから英学を学び、明治八年東京深川の菁莪(せいが)学舎の学長を勤め、九年から十年にかけては、東京築地英学校で英学を教えた。受洗後戸田は、東京基督公会・東京第一長老教会を経て、千葉県下の農村布教につとめ、同県下の法典・大森・佐倉の三教会の牧師を兼任し、乗馬で任地を往来し、十年十月按手礼を受けて正教師となったが、十三年四月品川教会牧師となり、十九年まで勤続した。北品川の緒明(おあき)横町に住み、馬で教会に通ったという。
戸田牧師就任の後しばらくは、品川教会の教勢も順調に進展し、十三年七月には芝田町に説教所を設けて布教戦線を拡大した。しかし、十五年十一月には、品川教会員の一部が高輪に台町教会を新設して転出したが、戸田は同教会牧師を兼ねた。また、戸田を校主として、十八年二月五日に小学校が開設された。これは、いわば教会立の私立小学校でありミッションの補助のもとにキリスト教主義に立った初等教育がおこなわれ、旧約聖書箴言十節九章のことばにもとづいて知本小学校と名づけられた。
居宅が品川教会創立の場所となった岡見辰五郎は、十年十月に東京一致神学校の学生であったことから推して、同校に合併したいずれかの神学塾の学生であった。教会創立後には、かれは教会からの経済的援助を受けつつ、教会の奉仕や布教活動に従事した。かれは台町教会新設に際して品川教会から転出し、その後、頌栄小学校の教師を勤めた。十八年中には、品川教会に来会して戸田牧師の手助けをし、二十四年には第一東京中会の伝道者となった。
以上の宣教師・牧師・神学生のほか、教会の柱石として働いた幾人かの指導的信徒がいた。そのひとりは初代長老の鈴木清作であるが、かれについては、品川教会の正式の代表として中会に出席していること以外にほとんど知られていない。同じく初代長老の堀口孫次郎は、南品川宿に生まれた薪炭・油類の販売を業とする商人であり、明治九年安川亨から洗礼を受けた。かれが荏川町集会以来の信徒であることはすでに述べた通りであるが、明治三十一年ころ倒産して伊豆山に隠退した。この堀口とともに、文字通り教会の柱石として、とくに乏しい教会財政の管理にあたり、私財を投じて尽力したのは梅田源左衛門である。かれは天保三年十一月七日の生まれで、明治十二年から十七年まで、大井村山之内から同村村会議員を勤め、搾乳業に従事していたという。
岡見清致(きよむね)は、中津藩士清通(きよみち)の長男として安政二年十月二日築地に生まれた。かれはスコットランド長老教会の宣教師H=ワデルに英語を学び、明治十年十二月O=M=グリーンから受洗して品川教会の信徒となった。青物横町会堂建設に際しての献金と協力についてはすでに述べたが、『七一雑報』(明治一一年六月一四日)の記事によれば、かれは近隣の児童で通学できない者のために自邸内に「品台学校」を設立し、「教師を雇ひ貧人の子弟をして無月謝の上学校授業の入品一切を給与し且つ午前には聖経及び教略問答等の講義」をなさしめた。
岡見は、父の遺産を継承してそれをとくに教育事業に投じた。かれは台町教会に転じた後、私立頌栄小学校(明治十七年)・同女学校(同十九年)・同高等女学校(大正十一年)を創立・経営した。
鈴木鉀二郎(こうじろう)(平野甲二郎ともいう)は九州唐津藩出身の士族であるが、明治二年横浜でタムソンから受洗した古い信徒のひとりである。判事という職業のため各地に転勤したが、品川教会と関係が深く、青物横町会堂新築のための献金者のひとりである点は、すでにみたとおりである。とくに、明治三十四年度以降数年にわたって教会の「管理者」をつとめた。その墓地は、品川教会員のものとならんで、海晏寺境内にある。
以上から推定されるように、創立当初の品川教会は、士族層や商人層によって構成されていた。しかるに、明治十五年の台町教会の新設によって一部の信徒が転出したが、その多くは士族層であった。それゆえ、品川教会はもっぱら商人層によって構成されるに至った。このことは、その後の教会の歩みに強く影響した。士族信徒とくに岡見清致のような富裕な士族の転出によって、商人層とくに小商人層で構成された教会の経済的基盤は弱くなった。そのために、教勢の停滞はさけることができなかった。