台町教会への一部教会員の転出は、品川教会の教勢にとってかなりのショックであった。明治十八年の教会員総数六〇名から翌十九年には四二名に減じ、二十年には三六名、二十一年には二六名と教会員数は減少するばかりであった。もっとも、教勢停滞の状況にもかかわらず、教会内部においては信仰生活の厳格さが求められ、信仰の弛緩は決してみられなかった。たとえば、二十年十月三日の東京第一中会に、信仰に反し教会生活を厳守しない七名の品川教会員の処分が、当時の長老梅田源左衛門・加藤覚・堀口孫次郎の名で請求された。そのなかには「公ケニ主日ヲ破リテ商事ヲ営ミ且ツ高利貸ヲナス者」の処分請求も含まれていた。当時の信徒たちの聖日厳守の態度やピューリタン的生活態度が、このことをつうじてうかがわれる。
二十年七月、北品川宿(通称長者町)一四七番地に品川教会の新会堂が建築され、九月十七日献堂式が挙行された。この会堂は、敷地内に亀に似た松の木があったので、亀ノ甲松(かめのこうまつ)会堂といわれ、瓦葺木造平家建とはいえ、屋根の上に十字架がつけられていたため、地元民の眼にはきわめて異国風の建物と映じた。ただこの会堂は、旧目黒川の氾濫のたびに浸水し、建物の受ける被害が大きかった。
この会堂は、青物横町会堂とその地所を売却し、その代金二六〇円を基金として建設された。しかし、総費用九八〇円七八銭には及ばず、不足金は椅子・ストーブの売却代一一円一五銭、築地ミッションの援助金一五〇円、信徒一六名の献金一八五円二〇銭、合計六〇六円二五銭で補ったが、なお三七四円四三銭が不足した。この不足分は、梅田源左衛門と堀口孫次郎からの借用金三五〇円をもって支払いにあて、残金二四円四三銭は翌二一年四月教会集金から支払われた。梅田・堀口からの借用金は二四年二月、形式的には返済されたが、実質的にはこの借用金とその後の教会財政の累積赤字との合計四二〇円六二銭一厘は、外国ミッションからの補助金三六〇円と、梅田源左衛門の特別献金六〇円余によって完済されたのである。当時の教会財政の苦しさがうかがわれる。
献金額 | 氏名 | |
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円 | 銭 | |
100 | 梅田源左衛門 | |
20 | 堀口孫次郎 | |
10 | 加藤覚牧師 | |
10 | 梅田角蔵 | |
5 | 同 はる | |
5 | 笠原勝三 | |
1 | 清水もと | |
5 | 今井新三郎 | |
5 | 鈴木〓次郎 御家内 長谷川すが |
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7 | 西ノ家そで | |
3 | 達林宏吉 | |
1 | 江口こう | |
5 | 田中安兵衛 | |
5 | 今村こう | |
20 | 左々木 | |
3 | 小坂やす |
(「日本基督一致品川教会会計帳」による)