品川教会の推移

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新会堂は建設されたが、品川教会の財政はしだいに独立自給が困難となった。二十二年三月からは、毎月一五円の援助を「築地ミッション」から定期的に受けることになった。この年の二月、大日本帝国憲法が発布され、その二十八条では「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という制限内ではあったが、信教の自由が認められた。長い間黙認状態に甘んじていた日本のキリスト教徒は、この憲法発布を特別の感慨をもって祝った。東京では市内諸教会の連合祝賀会が開かれた。そのため品川教会では、「二月十一日憲法発布厚生館入用教会エ割合ノ分」として二円を分担支出している。

 この祝賀会とはうらはらに、品川教会の前途にはむしろ不安が待ちかまえていた。憲法発布以降、国粋主義の風潮が強くなるや、キリスト教への風当たりは強く、とくにキリスト教は日本の国体とあい容れないとされ、日本のキリスト教界は全般的に沈滞におちいった。またこれと時を同じくして、教会内部には在来の正統的信仰に動揺が生じ、ドイツ普及福音派や、ユニテリアンのようなリベラルなキリスト教理解に傾く者がふえた。品川教会では、戸田牧師のあとをついで牧師となった加藤覚が、二十三年六月、信仰上の変化からユニテリアンに転じた。このため教会の動揺はおおうべくもなく、牧師にも恵まれず、教勢は沈滞せざるをえなかった。この年の十二月、日本基督一致教会が日本基督教会と改称したので、日本基督品川教会と名称がかわった。

 二十八年以降三十五年まで、品川教会牧師として、石原保太郎が就任したが、三十一年「従来ノ会堂大破損セシモ現在ノ会員ニテハ之ヲ修繕スルノ力ナシ、止ムヲ得ス去ル十月之ヲ英国監督教会ニ売却」することになった。かくて、亀ノ甲松会堂は、日本聖公会聖馬利亜(せいまりあ)教会に売却された。(注)

 会堂売却後の礼拝は、しばらく長老梅田角蔵宅(南品川東広町四七九番地)でおこなわれた。梅田は埼玉県の出身、明治十二年四月上京し、搾乳業に従事し、十七年四月戸田牧師より受洗、品川教会員となった。

 三十二年九月からは、礼拝は知本小学校跡(南品川宿二五二番地)を借用しておこなわれた。というのは、同年八月、同小学校は、官公私立学校での宗教行事を禁じた文部省訓令十二号の影響によって廃校となったからである。その当時の礼拝出席者は平均一六名(男三、女一三)であった。またここで、廃校後の知本小学校の日曜学校が続けられた。さらに、三十三年三月、知本幼稚園設置が許可されるや、同年九月から同幼稚園を借用して品川教会仮会堂とした。

 明治四十年、自給独立が不可能となった品川教会は、その資格を格下げされ、日本基督品川伝道教会となった。四十四年には大井町に日曜学校が開始され、やや教勢は活気を呈した。大正八年から、教会所在地は大井町四〇九番地大井日曜学校内に移り、大正十一年には自給独立を回復し、これを機会に日本基督大井町教会と名称を変更した。昭和十六年十一月、プロテスタント各派の合同により日本基督教団が成立するとともに、現在の日本基督教団大井町教会となったのである。

(注) 日本聖公会による伝道は、明治二十八年九月から北品川宿二二五番地に定住した安枝武雄伝道師によってはじめられており、同三十二年九月三十日の「聖馬利亜聖堂既設届」(今井寿道提出)によれば、同聖堂は三十一年十一月一日から設立されている。