品川小学校

156 ~ 158

明治六年六月に都築幾三郎という人(当時二十五歳、文久三年から慶応二年まで三年間神田孝平という人の塾で算術の修業をした。出身は平民である。)が歩行新宿の禅福寺を借りて、数学を主体とする寺子屋塾を始めるが、都合ですぐに法禅寺に所を変え、門弟六十数名を教えていた。当時のこの地の戸長下村利忠は、これを公立学校に転用すべく東京府に許可を願い出たが、それが明治七年二月二十日に認可となり、第一大学区第二中学区第六番公立小学品川学校という公称で発足した。校長は都築氏が継承し、深井源八郎・篠崎源八の二人が学校世話係に就任した。当時の生徒数は八一名であり、教室は二八坪と三五坪の二棟を金八円の借料で借りて使用していた。

 その後、生徒数が増加して法禅寺が手狭まになったので、明治十年に御殿山耕地百九十六番地の四畝四歩(一二四坪)の土地に新校舎を作り移転した。しかし一〇〇坪ちょっとでは敷地があまりに狭いため、隣接の松平子爵邸の土地を無償で借用して利用していた。

 この地は、今の私立品川高校のある場所であるが、生徒数は明治十一年には男子六八人、女子五九名、計一二七人となっていた。

 第23表 品川・城南小学校生徒数の変化

(明治7年~同45年)

学校名 品川小学校 城南小学校
年度
明治7年 81 70
10 109 112
14 148 276
15 290 245
20 252 (明治19年) 243
25 321 (〃 24年) 371
30 330 454
152
35 338 (明治34年) 610
229
40 547 871
248
41 576 957
同45年(大正元年) 662 901

(『品川町史』下巻および「品川小学校55年周年記年誌」より作成)
注 品川小学校の生徒数のうち明治30年~40年までは,上が尋常科,下が高等科の生徒数。


第25図 品川小学校(大正3年)

 続いて明治十五年に校舎一棟増築、二十三年には裁縫室等を新築し、合計九教室、建坪一〇六坪を有する学校へと発展した。

 当時、学校経営は大変に苦しかったらしく、明治七年から十二年の間に赤字を四三〇円ほど出しており、それを北品川宿議員が諮り、共有地有志寄付金のうちから支弁するという記事があることからも知ることができ、また明治十二年九月分の経費明細を見ると、収支差引き四円八五銭ほどの不足となっていることがそれを物語っている。

 

第24表 明治十二年九月分の品川小学校経費明細(「明治十二年自七月至十二月品川小学校入費帳」にて)

一金八円三拾三銭四厘  宮崎

一金八円        貞方

一金六円弐拾五銭    和泉

一金五円        鈴木

一金三円七拾五銭    吉田

一金壱円        岸本

一金三円        小使

一金壱円五拾銭     賄料

一金三円七拾六銭五厘  唐紙ノ代美濃紙ノ代

一金三円八拾壱銭六厘  経師屋払

一金五銭        水鉢代

一金拾八銭五厘     朱肉代

一金弐拾銭       人足代払

一金五拾七銭五厘    土瓶茶碗代

〆金四拾五円五拾弐銭五厘

一金拾八円弐拾七銭五厘 月謝集メ

一金壱円五拾銭     宿料

一金七円三拾銭     補助金

一金拾三円五拾九銭三厘 分頭金

〆金四拾円六拾六銭八厘

差引不足

〆金四円八拾五銭七厘

(服部文書)

(品川町史下巻より)

 

 当時の学校は公立小学校でも授業料は払ったのであり、その徴収額をこの学校の明治二十四年についてみると、二〇銭以下一五銭以上が二四五人、二〇銭から二五銭までが九二人であって、家の所得の違いによってその金額が異なっていたことを示している。