明治八年に明治三年からあった桐渓学校が第二中学区第十番小学桐渓学校として認可され、桐ケ谷の民家で授業をしていたのを起源とするが、当時は戸越村・桐ケ谷村・居木橋村・下大崎村四ヵ村の共立であった。その後十一年、日野小学校が設立されるのと併行して、居木橋・下大崎村がこれから分離し、一方中延・小山村合併でできていた中山学校を併合して戸越村八九番地(現在の平塚橋郵便局の地)に第二中学区第十三番小学京陽学校と称し、五〇坪ほどの校舎を新築した。しかし、十四年になると、一時併合した中延・小山地区が分離して新たに延山小学校を作ることになったこと、桐ケ谷地区が日野小学校に移ることになり、戸越村一村の学校として存続することに変わった。そのため、生徒数五〇人前後の小規模な学校として明治二十年代まで継続されてきた。たとえば明治二十五年の記録では生徒数六八名、卒業生男三、女二名計五名という記録が残っている。
しかし、三十年以降は生徒数も増加しはじめ、明治四十年代にはその数が一八〇名にもたっし、校舎が手狭まとなったため、四十三年現在地に移して敷地五一五坪となり今日にいたっている。
なお京陽の校名の由来は京城の南をかがやかすことの意味と、東京の南の陽当りのよい明るい地という含みをもつものといわれている。