江戸時代の末から明治の初めにかけて、いわゆる寺子屋が、荏原下蛇窪の名主伊藤家の邸内に設けられ、そこで伊藤杜松斎と、その長子伊藤受房の二人が教えていた。杜松斎は慶応三年に五十五歳で没するが、塾は受房によって受けつがれる。その後塾は、明治五年には金子邸に移転し、金子市兵衛が指導にあたり、次いで明治七年から十年までは東光寺の僧萩野弁道師が師匠となって継続される。
そして明治十年になるといよいよ小学校としての体裁をととのえる時期が到来し、現在の古河研究所のある所に独立の校舎が建てられ、上蛇窪・下蛇窪二ヵ村の小学校として設立され、明治十二年十月認可が下り、正式に公立杜松小学校が成立したのであった。その校名の由来は、伊藤杜松斎の杜松をとったものである。
当時の校舎は敷地五五坪、校舎二〇坪、生徒数約五〇名、教師一名という規模であった。また月謝は一律に六銭であったが、翌十三年十一月には八銭に値上げされており、ここにも当時の学校経営が財政的になかなか困難であったことを物語る証が見られる。
その後、学区内生徒の増加から校舎が狭くなり、移転の必要にせまられ、明治三十七年に一度移転し、さらに大正十年には現在地へと移転が行なわれたが、その当時には生徒数五八〇という数にふくれ上がっていた。