この学校は大正十三年に廃校になり、記録類が散逸してしまったため、沿革は詳らかではないが、公立学校としての設立は明治十四年二月である。それ以前の明治十三年ころ、南品川猟師町八十九番地の武蔵屋の長屋を借り入れて開いた私塾がその前身である。公立学校となるに及んで共有地八十番地に三十数坪の土地を求め、そこに粗末な校舎を建てて教育が行なわれた。その生徒数は五、六〇名であって、学級も単級制が長く続いた。大正十年になると、かつて一時的におかれていた利田新地の品川小学校分教場が本校に引き移ったので、その跡へ移転したが、十三年には廃校が決まった。そのため生徒は品川・城南の二学校に転校したが、その数は品川小学校に八名、城南小学校へ二六名という僅かな数であった。
なお、明治二十四年の授業料等差表を見ると、洲崎小学校は四七人がすべて授業料一〇銭以下であって、品川・城南小がすべて十五銭以上であるのに較べてはるかに低く、猟師町の低所得層の子弟が、この学校に入学したことを示しているものといえよう。