この学校は享保年間に江戸浅草で手蹟指南所を開いたのがその起源となっており、文化七年に北品川宿に移って引き続き指南所を開業していたものである。明治六年に家塾となり、次いで明治八年には文部省の布達によって荻野小学校となった。その後、明治二十九年には高等科を設置し、尋常科四年、高等科四年合わせて在学期間八ヵ年の小学校となり、生徒数も三〇〇人に及び、当時は月謝も二〇銭を徴収していた。明治三十二年公立学校の生徒が急増したため三ヵ年契約で神戸小学校とともに代用小学校となったこともある。
しかし、大正期になると町立小学校の隆盛に従って生徒数減少し、ついに大正五年に小学校を閉鎖し、明治四十四年から併設していた幼稚園の経営に専心することとなった。