不就学児童

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前述したように、明治十年代に品川地区の小学校体制は整ったのであるが、実際に進学適齢期に達しても進学のできぬ児童は極めて多数に上っていた。それはまだ当時は義務教育制度(明治十九年の小学校令で義務制が確定する)は布かれておらず、また、小学校は授業料を徴していたから、貧民の子は学校に行きたくても学資がなくて、就学できぬ者も少なくなかったのである。

 この不就学児童の割合を、管内の小学校の実情から眺めて見ると、例えば明治二十四年の品川町内において就学適齢期の年齢男子一、二四五人、女子九四一人のうち、未就学者は男子三〇八、女子二二二、卒業年限まで就学できずに退学した者、男子一六二、女子一二四となっており、その比率は男子約三八%、女子約三六%という高率を示しており、また小学校の設備も貧弱なため、未就学児童があってはじめてどうにか生徒を収容できたのであった。

 また、大井小学校についてこれを見ると、明治二十九年生徒数一一七人に対して、不就学児童は三三三人の多きに達し、三十一年には生徒数一四二人に対して不就学五五〇という状態だったが三十四年になると三十三年に出された小学校令改正による授業料の原則としての廃止や、大規模な校地拡張により一挙に不就学が七二人へと減少している。

 ともかく、この時代は小学校に通えるものは中層以上の家庭の恵まれた子弟であり、他の児童はすでに家事、その他の労働に従事していたことを示すものである。