当時の小学校の学校行事や学校生活はどんなものであったろうか。これを各小学校の沿革史の中の記事から二、三を抜き出して想像してみよう。
品川小学校沿革史(抜粋)八五周年記念
明治七年
三月二十八日 本日開校教員都築幾三郎・林多一郎・国分定胤の三名にて授業をなす。
生徒総数(男53名・女28名)
五月二十五日 大試験を行う。
九月二十八日 年齢調査の際六歳以下の児童五名女二名ありたり。
明治九年
七月十九日 本日より八月三十日まで暑中休暇となす。但し此の期間中隔日授業をなす。
十月二十一日 東京府知事楠木正隆氏よりの通達により土曜の授業を午前限と改む。
明治十六年
五月二十一日 西郷従徳入校
八月三日 戸長役場よりの達により左の通り取調ぶ。
一、華族の子弟 男一名(西郷従徳)
一、士族の子弟 計三十三名(男十九名・女十四名)
一、官吏の子弟 計二十四名(男十五名・女九名)
一、農工商等子弟 計二百二十四名(男四十一名・女八十三名)
明治十八年
一月八日 陸軍始にて本校は旧来は休業せしが、本年より習慣を脱して授業を開始す。
二月十六日 府庁より医師大野恒徳氏出張し来り、本校生徒外来人百八名に種痘を行う。
二月二十七日 器械買入の法他に費用なきを以って月謝十銭及十二銭五厘の者は十五銭に定め其の増額を以って是に充つ。
五月十六日 卒業免状授与式を挙行す。中等科六級以上の女生徒新設の礼式を以って免状を受く。試業を受けたる生徒二百二十五名にして及第百九十二名なり。
五月二十一日 幻灯会を開く、米国人ブレッテン女、説明同リート女、器械を運転す。戸田忠厚氏口訳す、入場者七百名。
十月十二日 卒業免状授与式を施行す。試業生二百四十名にして免許状を附与し昇級を許す者二百二十名。
明治二十二年
二月十日 紀元節及憲法発布につき祝賀のため本校生徒及私立荻野・佐藤両校生徒総員五百名ねり歩く。
二月十一日 雪天に付高等男生の奉迎は管理者の不同意により中止となる、然れども生徒皆用意して出向せしを以て教員にて有志者を引率して泥濘を犯して宮城に行き陛下の万歳を祝す。
二月二十二日 生徒用銃十六挺・ランドセリ教師用銃を購入す。
明治二十八年
五月三十日 大元帥陛下広島より御還幸あらせらるるに付職員生徒品川停車場に到り還幸の唱歌を歌いて奉迎す。
五月三十一日 正午、職員生徒一同品川停車場に致り皇后陛下の御還啓を祝し奉る。
明治三十年
一月十三日 皇太后陛下崩御遊ばされたるにつき五日間休校す。
十一月十九日 当分物価騰貴につき臨時町会の決議により一ケ月一人50銭ずつの手当金を給与せらる。
以上の抜粋を見て気がつくことは、当時の小学校教育が明治政府の方針によっていかに皇国主義的に運営されて行ったかをよく物語っているということができ、上からの押しつけ的な教育の傾向が強かったことを示している。しかしいっぽう、教育の向上によって後進国から先進国に追い付かんとする意欲も強く感ぜられ、伝染病に関する注意事項や、種痘の実施、幻灯会の開催など、医学予防・科学教育にも力を入れていることもわかる。また、品川小学校は御殿山という旧藩主、士族屋敷の地区を学区に持っているため、華族・士族・官吏の子弟も入学しており、当時の品川地区の小学校としてはハイクラスの組成を持っていたといってよいであろう。
京陽小学校九十周年記念誌「思い出の記」より抜粋)
明治十五年~二十年ごろ 七十五周年の記念誌の中の池えささんの思い出
「校舎は平塚橋の交番のところにあり、家から学校まで畑と竹林ばかりで麦のできる時は麦畑で道がわからなくなり、人通りも家もなかった。当時は学校へ行っても行かなくてもよかった時代であった。当時先生は、男先生三名で、もめんの着物を着、はかまをはいていた。たまに洋服をきてこられると珍しがった。女の子は、長い袖のしまのもめんを着、はかまをはいている人はなかった。頭は銀杏返しにゆっていた。そして手習草紙(半紙一帖を一冊にしたもの、水さしは竹筒の水入れを使用した)とそろばんを持ってかよった。朝は九時ごろからはじまり十二時まで。十二時から一時まで遊び、午後は一時から三時まで勉強だった。
試験が年二回(四月、十月)よその学校の先生、学務員が生徒のまわりに輪になりその中で試験をした。習字は毎日あり、玄関に出席簿があり、毎日判を押して教室に入った。」
明治二十四年~二十五年ごろ このころは、学校維持の困難なときであったらしい。二十五年の三月には、児童数が六十八名になった。二十五年の卒業生宇田川又次郎さんの思い出
「学校までの道は両方からかやがかぶさり、車がくると端によらないと通れなかった。始業は八時、帰りは二時で弁当を持つ者もあったが、農家がいそがしいためたいていは午後になると半分位になっていた。曜日によって学科をくまず、毎日習字そろばんが一時間ずつあった。
月謝が月に十銭で、(父親がないと免除)これが村費となり学校の経費がまかなわれた。十銭制度は相当長く続いた。」
明治三十五年ごろ このころの学校のまわりのようすを松本直次郎さんの思い出によると
「学窓より外を見れば東は畑、北は竹山で筍を堀る姿が見え、西は中原街道で肥桶や、野菜車をひく百姓や、ちょんまげの人も見えた。」
このころの服装は、盲じまかすりのもめんに前だれであった。はきものは、竹の皮のぞうり。
上野の動物園に遠足に三年四年がいった。そのとき男はわらじ、女はいわえつきぞうりで先生もそうであった。
これを見ると当時の戸越村の農村風景と、そのなかにある小学校や小学生ののんびりとした学習の姿をほうふつさせるものがある。そして、当局側が皇国主義・官僚主義的な指導方針でのぞんでも、農村部の学校の生徒達はかなり自由に学校生活を楽しんでいたことが分る。また午後になると生徒数が半数になるという話は、如何に当時の近郊農家がいそがしく、子供にまで労働の負担がかかっていたかを示している。
また、年2回の試験が他校の先生や学務員でなされるなどは、生徒にとってかなり厳しい制度であり、また教師や学校の評価判断にもすぐにつながるものであり、当時の成績第一主義の姿をここに見ることができる。