明治憲法体制下の品川

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いわゆる明治十年代末葉から始まる「企業勃興期」もすぎて、明治二十年代に入ると、日本の近代社会もひとつのエポックを画する時期を迎えることになる。行政的にも、明治二十年四月に市制・町村制が施行されてゆくのである。

 明治十年代の「下から」の自由民権運動に対応しながら、明治政府は「上から」の「官治的」ともいうべき地方自治制を創出してゆくのである。たとえば、明治初年以降、大きな役割と果たした大小区制を改め、旧来の町村を強制的に合併してゆくのである。もちろん、これは、日本全国にわたったのであって、品川区域内の諸町村も、その例外ではなかった。

 さらに、これまで三新法体制下において展開された町村会も、二級選挙制を採用して再出発することとなる。

 そして、明治二十二年二月十一日、明治憲法が発布され、それ以降大正・昭和と戦前の日本社会を大きく規制してゆくのであり、同時に「地主議会」と呼ばれた制限選挙による帝国議会も開設されてゆくこととなる。

 いってみれば、一方では「国民之友」が明治二十年に創刊され、同時にあの仮装舞踏会で有名な鹿鳴館時代に示された欧化主義への批判が高まってゆくなかで、他方では、明治十年の第一回から三回目を算えるに至った内国勧業博覧会も、明治二十三年四月から三ヵ月間上野公園で開かれて、ますます日本資本主義を確立させてゆくために諸産業部門の技術の交流が活発化してゆくのである。

 かかる文明開化のあたらしい息吹のなかで、品川区域内の産業の動向なり、庶民の生活はどうであったろうか。

 

 まず、近代産業の勃興という点に着目すると、たいへん興味ある事実に気づく。目黒川沿岸への集中がそれである。官業払下げ後の品川硝子・品川白煉瓦をはじめとして、軽工業としての後藤毛織・東京毛布製造、さらに日清戦争前後から日露戦争にかけて、機械工業としての明電舎などに代表されるように、目黒川の水力源・運輸手段としての利用・依存と、これまで京橋・芝方面などに存在した零細工場が軍需の拡大に支えられ、刺戟されながら、新しい工場立地をこの地に求めるに至ったのである。

 もちろん、このことは、区域内の大井村なり、平塚村なりの農村部に影響を与えずにはおかなかったであろうが、農村生活全体には大きな変化がなかったといってよい。幕末・明治初期の生活様式をすら継承していたものといっても大過ないであろう。たとえば、農家の照明なども、ランプが主体であり、行燈(あんどん)も使用されており、戸越で電灯がひかれるのは、明治三十年代ごろといわれ、それも一家で一灯、ガス灯をひく家もあったという。架設費が高かったのである。主食は「ヒキワリ飯」、副食は自家でとれた季節ごとの野菜の煮付けが主で、味噌・醤油も自家製だったのである。

 しかし、明治二十一年に品川町の誕生はあったものの、その中心をなした旧来の品川宿は、明治二十二年には東海道線の全通もあって、大きな衰退を余儀なくされてゆく。しかも都市近郊農村が、田園都市化してゆくのは、日露戦後から大正期にかけて本格化するのであるが、筍栽培なり、蔬菜栽培なり、その供給地としての役割を見おとしてはなるまい。品川区域町村にも影響を与えた明治二十六年における東京府への三多摩編入問題は、当時の神奈川県管下に大きな勢力を保持していた自由党の封殺をねらった点は認めうるにせよ、やはり水源問題との関連を無視することはできないであろう。品川用水・三田用水が貫流して、農村部の水田涵養源として役割を果たしつつも、蔬菜栽培地域としての畑作化、さらにそれが工場用地として転成しはじめてゆく時期がこの明治後期だったといえよう。