さきに、目黒川沿岸に近代産業が集中すると書いたが、旧来の品川宿なり、新橋・横浜間の鉄道創設に代表される品川の特徴についての指摘は、さらに、この目黒川沿岸に集中する各種産業の展開、その工場立地の有利さに着目するとき、改めて、川崎・横浜地域とも関連させて、大正・昭和初期に完成される「京浜工業地帯」形成の出発点たる位置・性格についての指摘によって補完されねばならないと思う。日露戦争後から第一次大戦期にかけて、大略出揃い、企業形態としても、株式会社形態をとるに至る各種の近代産業は、民間毛織物工業の創始たる後藤毛織、機械器具工業、とくに三相交流電動機を創製した明電舎をはじめ、荏原・園池両製作所、光学機械の日本光学、窯業の品川硝子、品川白煉瓦、化学・薬品工業としての三共製薬・星製薬・日本ペイント・藤倉ゴム・明治護謨・食料品工業として森永製菓、さらに「三菱鉛筆」で著名な真崎鉛筆など枚挙にいとまがない。
しかも、第一に、精密な復元は不可能であるが、これらの各種産業が目黒川沿岸に目白押しに移転、成立してゆくのである。第二に、品川硝子の工場設備が三共製薬に引継がれたように、工場立地の交替が顕著なのである。さらに、第三に、品川硝子が官営から西村勝三らによる民営移行の折、硝子職工たちの分散・自立がみられたが、それは間接的ではあれ、大正期に成立をみる日本光学に技術的に継承されていること、あるいは、同じ窯業部門に属する品川硝子・品川白煉瓦に示されるように、同一経営、あるいはドイツからの技術導入が同一の技術者を媒介としたように、経営的にも、立地的にも合理性が企図されたように思えてならない。
いってみれば、開港場としての横浜、新興町村としての川崎町では、埋立を契機として、造船業・鉄鋼業等いわば重化学工業の形成がみられたのに対して、品川の場合は、前述のように各種の諸産業、すなわち軽工業から重化学工業にいたる諸産業が併存し、同時に関連しあいながら形成・展開をみせていったものといえよう。それも、幕藩体制下に成立をみた利田新地にみられるように、目黒川の「自然的」埋立はあったと考えられるが、東京市域内の各種工場の延長・拡大の所産でもあったともいえよう。しかも、経営の隆替・消滅はあるものの、品川白煉瓦に例示されるように、さらに他地域へ移転してゆく傾向を示しているのである。つまり、東京府域の城南部に存在した各種工場が、明治後期から大正期にかけて品川区域に例を求めれば、目黒川流域沿岸に移転し、その後発展を示すなかで、工場規模の拡張・原料入手や販売事情などの理由もあって、広く東京府域外にふたたび移転してゆくことになるのである。このように、明治後期から第一次大戦期にかけて、一度は定着した各種工場は、関東大震災以降昭和期にかけて、「京浜工業地帯」の形成に示されるように、いっそうの展開を示しながら、品川区域から移転し始めると考えられよう。