いま、目黒川流域沿岸に一度は集中を示した諸工業が、大正末から昭和期にかけてふたたび移転してゆくと記した。この点は、逆にいえば、通常いわれるような「コンビナート化」といった工業の存在形態が品川区域内では形成されなかった点に、大きな理由があったと考えられる。たとえば、鉱山から石炭を採掘し、商品として石炭を販売すると同時に、コークスにし、その副産物としてガスを採取したり、化学・薬品工業の諸原料の採取・製造と地域的に集中しておこなうのが、独占段階に照応した「コンビナート」化といえよう。当然、これに埋立てによる用地造成が伴なうものといえる。
ところが、品川区域内の諸工業は、東京湾に向かって進出するのではなくて、むしろ東京湾から奥地に向かってゆくといってよい。それに加えて、各種産業がばらばらに併存していたことは、繰返しのべたとおりなのである。この点も、品川区域内の農村部も含めて、経済的発展の一つの特質を示したものと考えられよう。
なお、日露戦争前後から大正期にかけて、日本資本主義が独占化するなかで、当区域内にも新設工場が生まれてくるのであるが、そもそも軽工業の代表ともいうべき後藤毛織の場合も、陸軍の軍需に大きく依存していた点は後述する通りである。さらに、日本ペイントの場合も艦船塗料に力を注ぎ、日露戦勝の折には、ペイント缶による軍艦模型まで作成・展示されている。藤倉ゴムの場合も、レインコート・空気枕の製造販売といった民需と並んで、海軍の「潜水艇用防水服」、「飛行機用翼布」さらに逓信省からの「海底電線敷設用浮標気球」の受注納品といったように、軍需や官需が多い。大正期に出発する日本光学の場合も、海軍による要塞砲撃用測距儀や双眼鏡が光学工業形成のそもそもの出発点だったのである。
つまり、明治後期を通じて旧来の農村生活・庶民生活が除々に変化していったことは疑いないけれでも、民需に結びつき、生活様式の変化と関連しあった各種産業の発展ではなかったのである。まさに、日本資本主義を体現する形で、創成期の近代産業には軍需が高い地位をしめていたものといえよう。