明治二十一年四月十七日市制・町村制が法律第一号として公布された。この法律は市町村を「一個人民ト権利ヲ同ク」する自治団体であるとし、市町村住民の市町村の営造物・財産にたいする共用権とその負担にたいする義務を明記し、条例規則の制定権、制限された形態ではあるが市町村長の公選制、町村会の設置と議員の公選などを認めた。
しかし他方では「其区域ハ素ト国ノ一部分ニシテ、国ノ統轄ノ下ニ於テ其義務ヲ尽ササルヲ得ス」という立場から、市町村公共事務にたいする国家官庁の監督権、市長選出の内務大臣裁可制、町村長以下主要吏員にたいする監督官庁の認可制、その他指定事項に関する市町村会の議決事項についての許可権・停止権、市町村会の解散権などが、中央官庁・地方上級官庁の手に握られていた。
また市町村会議員の選挙に関しては、地租もしくは国税二円以上を納める者に選挙・被選挙権を認め、しかも市・町村とも納税額による等級選挙制を採用し、市町村の有力者支配の体制を維持しようとした。
これらの点に、市制・町村制の性格がよくあらわれている。もともとこれはプロシアの地方制度にならい、政府御雇顧問のアルバート=モッセの意見に基づいて起草されたものであった。モッセは地方自治制は憲法を制定する以前に完備する必要のあることを説いた。国会が開設されれば、政党勢力によって地方制度も左右されるようになる恐れがあると考えたからである。地方自治制度創設の主管者であった内務大臣山県有朋は、これを次のように説明している。
自治制ノ効果ハ、啻(ただ)ニ民衆ヲシテ其ノ公共心ヲ啓暢(けいちよう)セシメ、併セテ行政参助ノ知識経験ヲ得シムルカ為メ、立憲政治ノ途用ニ資スル所至大ナリトイフニ止マラス、中央政局異動ノ余響ヲシテ、地方行政ニ波及セサラシムルノ利益、亦決シテ鮮尠(せんせん)ナラスト為ス。何トナレハ則チ立憲政治ノ下ニ於テハ、帝国議会ニ於ケル議院ノ趨向ト関連シテ、内閣更迭ノ機勢ヲ促カスコト少カラサルヲ以テナリ(山県有朋「徴兵制度及自治制度確立ノ沿革」)
明治十年代の自由民権運動の波に洗われてきた山県は、国会開設によって活発化する政党活動が町村に波及することによって、従来の町村における有力者支配が破壊されることをおそれたのであった。そのために一定の地方自治を認めながら、等級選挙制を採用して地方有力者支配を制度化し、政府や上級監督庁(府県・郡)による市町村への拘束を厳しくする方向をとったのであった。
こうして明治二十一年制定の市制・町村制はきわめて官治的性格のつよい地方自治制をつくりだすことになったのである。