全国的町村合併の必要

182 ~ 183

ところで、当時市制を施行した都市は全国で四〇にも満たなかったので(東京府では東京市のみ)、大部分は町村制によったのであるが、以上のような町村制実施にあたって最も重要な問題は町村費の増加であった。町村役場の組織、事務内容の増加、町村長の給料旅費など、町村制実施による経費負担の増大は明らかであった。しかしこの問題については山県有朋は「先ツ町村ノ経済ヲ整理シ、其資力ヲ充実シ、然ル後自治ノ制ヲ施サントスルノ説アルモ、先ツ自治制ヲ施シ、漸次町村ノ経済ヲ整理スルヲ以テ、当然ノ順序ナリ」とした。つまりまず自治制を施行し、漸次町村の資力を充実させようというのである。

 そこで事務量の増大、経費の増加を解決しようとしてとられたのが、町村合併による資力の増大であった。「隣保団結ノ旧慣ヲ基礎」とする自治制度の創出をめざした山県は、ここにいたってやむなくそれと矛盾する町村合併にふみきらざるをえなくなった。後年山県は次のように説明している。

 抑々町村ノ自治ハ、隣保団結ノ旧慣ヲ基礎トシ、其ノ上ニ行ハルルモノナリ。故ニ従来ヨリ存在セル町村ノ区域ヲ、濫(みだ)リニ変更スヘキモノニアラス。恰カモ数家ヲ合併シテ団欒(だんらん)タル一家ヲ造成スルノ不自然ニシテ、好結果ヲ奏シ得サルカ如ク、町村ニハ各其ノ特別ナル名称・沿革、及風習ノ存スルモノアルニ因リ、数箇町村ヲ合併シテ、一町村ト為ストモ、其ノ町村民相協同シテ能ク自治ヲ為スコト極メテ難カルヘシ。(中略)然レトモ当時全国町村ノ数七万ニ余リ、小町村ニ至リテハ僅カニ三十戸又ハ四十戸ヲ有スルニ過キス。今之ニ対シテ新町村制ヲ適用スルトモ、其ノ実効ヲ奏スルハ炭火ヲ擁シテ涼風ヲ求ムルノ類タルヘシ。即チ多数ノ町村ハ、到底自治体トシテ独立ノ能力ヲ有セサルコト、瞭トシテ〓日ヲ覩ルヨリモ明カナリ。是ニ於テ……新町村制ノ実施以前ニ於テ、先ツ町村合併ノ処分ヲ断行スルコトトシタリ。(山県有朋・前掲論文)

 かくして、全国的規模での町村合併が断行されることになった。この町村合併は、従来の自然村的封建村落を否定し、行政町村をつくりだしたものであった。その結果、明治二十一年末に全国で七万一三一四ヵ町村あったものが、翌二十二年には一万五八二〇ヵ町村と約五分一に激減した。この時成立した町村がほぼ現在の町村の原型となり、旧来の町村は大字となったのである。

 そこで以下に、品川区域では町村合併がどのように行なわれ、町村制がどのように実施されたかをみていこう。