東京府における町村合併、郡区境界の変更は、その準備としてまず明治二十一年の「町村区域戸口資力調査」を行ない、各町村の戸口・民有地・租税・物産・徴発物件などの詳細な調査に基づいて府庁で原案を作成した。その基本方針は、市内一五区は全国の首都として人口・家屋年々増加の傾向にあり、かつ道路・河川・公園などの設備により宅地が狭くなりつつあり、従って一五区の区域は拡張すべく、減縮すべきではなく、各区に接続する町村のうち市街化しつつある地域は、これを区に編入するという方針であった。
この案が府会に諮問されると、郡部出身の府会議員は一斉に反撥し、審議途中でその過半数が辞職するにいたった。その理由は、当時荏原郡を代表して平林九兵衛・高木正年が連署提出した答申書(資四一一号)に示されている。
合併ハ町村制ノ精神ニ基キ、自治シ能ハサルノ地ニ限リ施行スヘク、単ニ区部則市ノ便益ニ而已偏シテ郡部財産則チ重ナル邑里ヲ市ニ編入セハ、将来郡部行政ノ上如何ナル難件ヲ生スヘキヤ、仮令ハ郡会其他郡政負税ノ如キ其機関ニ要スル費額ハ郡ノ大小広狭ニ係ハラズ略同一ナラン。然ルニ其人口多ク財産豊ナル地則チ重ナル負税地ハ、概ネ市ニ編入セハ旧来郡ノ部分ニ於テハ一個一位ニ居ルモノハ勢ヒ壱・五位ヲ負ハサルヘカラス
郡部の反撥は、市部を優先する府の考え方にたいするものであった。担税能力をもった地域を市部に編入されれば、郡部の人民は従来よりも一・五倍の負担を背負わなければならないとする、郡部住民の不満であった。
この点に関しては、結局府当局の市部優先の都市中心型の合併が貫徹されることになった。
郡部内の町村分合については、まず各郡長の意見を問い、これに基づいて原案を作成し、次にこれを戸長に諮問してその意見を取捨して、これを各町村会にはかるという順序をとった。この方式にも府―郡の官僚案を上からおしつけていこうとする姿勢がはっきりあらわれている。従ってそれは、しばしば町村民の意向とは異なる官の都合が強制される結果となった。府―郡の考え方はほぼ従来の連合戸長役場区域を合して、新町村とすることにあったようである。
この府―郡の案でもっとも問題になったのは品川町であった。当初府―郡の案は、北品川宿のうち目黒川以西を除く地域と、品川歩行新宿をもって北品川町と改称、また南品川猟師町・南品川利田新地をもって品川猟師町と改称、両町を芝区に編入するとの案であった。これに対し南品川宿外三ヵ町村は、南品川宿・二日五日市村・南品川猟師町・同利田新地を合して南品川町とすることを主張、また北品川宿も品川歩行新宿と合併して品川町としたいことを各町会で決定した。これに対して、東京府は町村制実施直前に至って、南品川宿・南品川猟師町・南品川利田新田新地・北品川宿・品川歩行新宿・二日五日市村を合し、品川町とするの案を提示した。
しかし、これに対しては北品川宿・品川歩行新宿は総代服部幸右衛門・漆昌巌ら六四名の署名をもって一自治体をたてることを請願し、南品川宿・猟師町・利田新地・二日五日市村の四宿町村民も相川小兵衛外二三四名の署名をもって、同地域をもって独立したきことを請願した。両者が分離独立したい理由としてあげたのは、要するに南品川宿外三ヵ町村は、水産業および農業によって生計を営むのにたいし、北品川宿・同歩行新宿は商業・貸座敷を主とし、その風俗習慣を同じくしないという点にあった。
しかし、これらの住民の請願は府の容れるところとならず、全域を合して品川町となったのであった。
大崎村の場合も、府―郡案にかならずしも賛成ではなかった。はじめ府―郡当局は従来の連合戸長役場を構成した上・下大崎・谷山・居木橋・桐ケ谷五村をもって新村をつくろうとしたのにたいし、戸長海老沢重治は、さらに白金村・三田村・芝区白金猿町を加えて新村をつくりたいとした。その理由は、白金・三田両村も同じ郡に属し、人情風俗さらに異なることなく、また白金猿町は近隣の村を得意とする商家が多いことなどである。しかしかれらがなによりも白金・三田・白金猿町との合併を望んだのは、各村とも地価低く、到底財政的に独立できないということであった。しかし結局これらの住民意見はききいれられず、白金猿町の合併だけに終わった。
平塚村については、当局案は従来の戸越・上・下蛇窪三ヵ村連合戸長役場区域と中延・小山二ヵ村連合戸長役場区域の計五ヵ村を合併して新村にしようとした。これにたいし、両戸長とも区域については異議なしとしたが、ここでは新村名が大きな問題となった。
戸越村外二ヵ村は、新村名を武旭(たけひ)村としたいとし、中延外一ヵ村はこれを平塚村としたいとしたのである。戸越側の主張は、この地方の物産として著名であった孟宗竹を移植した山路勝孝翁の功績を村名にとどめる意味から、竹旭村としたいとしたのであった(注)。これにたいし、中延側は、小山・中延・戸越の境界近くに平塚と呼ばれる約二〇坪ほどの塚があり、大きな松二本が植えられ、その頂上にお稲荷さんが祭ってあるのが五ヵ村のほぼ中央にあるをもって、これを村名としたいとした。両者の意見は長い間折合いがつかず、その間に各村の一字をとって「戸小中蛇村」と称すべしなどの意見もでるなど相当紛糾したが、結局平塚村に落ちついた。このことは後の昭和二年平塚町が荏原町に変更されるまで尾をひいた模様である。
(注)『荏原区史』(昭和十八年刊)は古老の話として、この時の戸越側の村名案を「竹生村」としているが、東京都公文書館所蔵『明治二一年市町村制実施録』中の戸越外二カ村戸長山路治郎兵衛の答申書(資四一一号)に従って竹旭村とした。
大井村だけは戸数・人口・土地とも十分新町村の基準に達したものとして、一村でそのまま新制度に移行した。
以上のように各新町村ともそれぞれ問題をもちながらも、結局全体としては官当局の意向が大筋において貫徹され、つぎのような新町村が誕生することになった。
新 | 旧町村名 | 戸数 | 人口 | 反別 | 地価 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
反 | 円 | |||||
品川町 | 北品川宿 | 一、二七七 | 六、〇五九 | 八六・六〇二〇 | 四八、九五三 | 北品川連合戸長役場 |
品川歩行新宿 | 三八九 | 二、三六四 | 四・六三一八 | 二四、二〇七 | ||
南品川宿 | 一、六〇三 | 六、六五二 | 九八・二七〇二 | 五一、〇八〇 | 南品川連合戸長役場 | |
南品川猟師町 | 二〇二 | 八八八 | 一・八二二五 | 一、一八二 | ||
南品川利田新地 | 六二 | 三二六 | 九一一五 | 六一七 | ||
二日五日市村 | 六八 | 二四一 | 一九・六一〇五 | 五、九四二 | ||
計 | 三、六〇一 | 一六、五三〇 | 二一一・八六二五 | 一三一、九八三 | ||
大井村 | 大井村 | 九五一 | 四、七七六 | 二七九・七七一〇 | 八三、六〇二 | |
大崎村 | 上大崎村 | 一八二 | 七二二 | 五三・〇七〇六 | 一一、九〇三 | 五ヵ村連合戸長役場 |
下大崎村 | 一〇四 | 五六〇 | 六一・六三一六 | 一六、八九〇 | ||
谷山村(飛地を除く) | 二五 | 一六三 | 一七・五三〇〇 | 四、八一二 | ||
居木橋村 | 四七 | 二九八 | 四〇・三二二七 | 一六、三四〇 | ||
桐ケ谷村 | 七六 | 四四八 | 六五・七五二五 | 一八、四七五 | ||
白金村ノ字長者丸并増上寺之下屋敷 | 七 | 三五 | 一六・二三二一 | 一、九三五 | ||
白金猿町ノ内 | 一二六 | 四七七 | 二・三一〇〇 | 一、〇二二 | 旧芝区 | |
計 | 五六七 | 二、七〇三 | 二五六・八七〇五 | 一七、三八〇 | ||
平塚村 | 反 | 円 | ||||
戸越村 | 一七二 | 九六五 | 一四八・四〇二八 | 二九、三四二 | 戸越村外二ヵ村連合戸長役場 | |
上蛇窪村 | 三五 | 二四四 | 三四・六八一九 | 九、四三一 | ||
下蛇窪村 | 六〇 | 三三一 | 四四・七〇〇五 | 一一、八二八 | ||
中延村 | 一四五 | 八三六 | 一六六・八一一四 | 三二、四六三 | 中延村外一ヵ村連合戸長役場 | |
小山村 | 六八 | 三九八 | 六五・九三〇七 | 一一、六四九 | ||
谷山村ノ飛地 | 〇 | 〇 | 一・四八二七 | 二六四 | ||
計 | 四八〇 | 二、七七四 | 四六二・〇三一〇 | 九四、九七九 |