町村会と二級選挙制

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三新法体制のもとで明治十三年以来開設されてきた町村会は、町村制の実施により新たな制度のもとに再出発した。先にも述べたように、今回の制度の特徴は、町村会に二級選挙制を採用したことであった。町村制第一三条は「選挙人ハ分テ二級ト為ス、選挙人中直接町村税ノ納額多キ者ヲ合セテ選挙人全員ノ納ムル総額ノ半ニ当ル可キ者ヲ一級トシ、爾余ノ選挙人ヲ二級トス。(中略)選挙人毎級各別ニ議員ノ半数ヲ選挙ス」と規定した。

 つまり町村税の総額の半分を納める人びとによって議員の半数が選ばれ、残りの議員半数がその他の人びとによって選ばれるという仕組みであった。それは市制・町村制理由書で制定者が「資産アル者ニ……相当ノ権力ヲ有セシムル」とか「細民ノ多数ニ制セラルヽヲ防グ」と述べているように、町村の有力者支配の制度にほかならない。

 この二級選挙制の実際はどうであったろうか。荏原区史所収の資料によって平塚村の場合をみてみよう。

荏原郡平塚村

村会議員選挙権を有する者二百三十一人

 其直接村税金二百六十五円八十九銭二厘

  内訳

(明治二十二年)五月三十一日選挙 一級選挙人 四十五人

 其村税金百三十三円七十二銭

五月三十日選挙 二級選挙人 二百八十一人

 其村税金百三十二円十六銭二厘

右之通り

 これによって明らかなように、平塚村の場合、地租もしくは国税二円以上納め、町村負担を分任することで選挙権をもちえたものは二三一人で、全戸数四八〇戸と比較しても、四八%、約半数の戸主が選挙権をもったにすぎない。しかも全有権者中の二割弱の四五人から村会議員の半数六名が選ばれ、残り八割強の二八一人からあとの六名が選ばれることになる。

 このような事情は、品川・大井・大崎でもほぼ同様の事情であった。しかも都市化が進行し、土地をもたない無産者が増大するに従って選挙権をもたない人びとは増加する傾向にあった。

 もう一つ、町村会議員の定数については、町村制第一一条で、議員定数を人口の割合によって、つぎのように規定したが、これは三新法時代の町村会の定数より減少した。

 一、人口千五百未満ノ町村ニ於テハ議員八人

 一、人口千五百以上五千未満ノ町村ニ於テハ議員十二人

 一、人口五千以上一万未満ノ町村ニ於テハ議員十八人

 一、人口一万以上二万未満ノ町村ニ於テハ議員二十四人

 一、人口二万以上ノ町村ニ於テハ議員三十人

 これらの議員は以前と同様六年任期で、三年ごとに半数改選とされた。

 この標準により、品川町は二四名となったが、大正二年には人口増加に伴い三〇名に増員された。大井村の定員は一二名で、明治二十五年には一八名、同二十八年には一八名、大正二年に二四名、そして大正十年には三〇名と、これも人口増に伴い定員は増加していった。大崎村の場合、明治二十二年には定員一二名、明治四十四年には一八名、大正六年二四名、同十年には三〇名となった。平塚村の場合は、当初定員一二名であったが、大正六年には一八名となり、さらに大正十四年には二四名に増員された。