新しい町村会の発足とともに、新しい町村役場も発足した。品川町では従来南北二つの戸長役場を統合して品川町役場とし、前の第二小区区務所のあった北品川宿の品川橋際に設置された。その後明治二十七年一月の大火で焼け、隣接地に新たに町役場を建設移転した。その後目黒川改修工事に伴い、一時東海小学校内に仮庁舎を建設移転し、他方で本庁舎を北品川一四七・二四四・二四五・二四八番地に建設し、昭和七年工事に着手した。これが以前の区役所であった。
初代町長には町会の選挙により山本重興が選ばれた。山本は宿役人として、また副戸長としての経験ある人物で、以後一時期鳥山藤次郎に代わったが明治四十年までその職にあった。当時の職制は庶務・税務・会計・戸籍・学務・兵事の六係で、土木・衛生・勧業などは庶務係で取扱われた。
大井村の場合は従来の一村がそのまま新制度下の村に移行したものであったが、明治二十二年五月、今までの戸長田中肇が改めて村会で村長に選出され、以後大正五年死去するまでその職にあった。その間明治四十一年八月町制施行に伴い初代町長ともなったわけで、田中肇は、明治十八年戸長に就任以来、村長・町長として実に三二年の長きにわたってその職責を果たしたことになるわけである。
役場は鮫洲九十四番地におかれ、吏員は村長・助役・収入役の外に書記一名という少人数で処理された。その後明治三十七年・四十年に各一名増員し、四十四年には七名となった。以後大正期にはいると町勢の発展に伴い急速に町役場吏員も増加することになるが、初期の小規模な役場風景が想像される。
大崎村は従来の連合村がそのまま新村になった。村長にはいままで戸長を勤めてきた海老沢重治が選任された。海老沢重治が二十四年に死去すると、その後に嗣子啓三郎が推されて村長に就任した。啓三郎は明治四十一年の町制施行後は町長として大正六年の死去まで二六年間その職にあった。海老沢氏は父重治の戸長就任から数えると父子二代で実に半世紀にわたって大崎の民政をとりしきったことになるわけである。
同じように平塚村でも、明治二十二年六月に村会を開いて村長および助役を選挙した。村長には中延の高橋勝蔵を選出した。代々芝御霊屋敷名主職の家に生まれ当時三十六歳の高橋は、以来明治三十年までと、その後一三年の間をおいて、明治四十三年に再任され、昭和二年まで通算二五年間その職にあった。
先の大井村の田中肇といい、大崎村の海老沢父子、それに平塚村の高橋勝蔵らがきわめて長期の村政を行なってきたことは、この時期の村落の名望家支配を物語るものであった。そしてこれらの町村長の多くが、旧幕時代の名主や宿役人であったこともこのことを示している。品川町長なども区制移行まで、ただ一人漆昌巌を除いてほかはすべて旧宿役人層の出身であった。