市制町村制によりあらたに行政村としての器をととのえた品川区域の各町村は、大東京市の近郊として急速に発展していった。その人口は明治二十一年から明治四十五(大正元)年までの二〇年間に、品川では一・三七倍に、大崎は四・七二倍に、大井は四・三五倍に、そして平塚は一・五六倍にふえている。(第27表参照)
町村 | 品川町 | 大崎村 | 大井村 | 平塚村 | ||||
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年度 | 戸数 | 人口 | 戸数 | 人口 | 戸数 | 人口 | 戸数 | 人口 |
明治11年 | 3,208 | 12,426 | 403 | 1,730 | 968 | 4,357 | 462 | 2,612 |
21 | 3,601 | 16,530 | 567 | 2,703 | 951 | 4,776 | 480 | 2,774 |
26 | 3,549 | 16,028 | 1,700 | 5,250 | ||||
29 | 3,546 | 17,326 | 610 | ? | 1,147 | ? | 482 | ? |
30 | 3,578 | 17,687 | 610 | 4,247 | 1,180 | 6,303 | 482 | 3,275 |
31 | 3,593 | 18,299 | 621 | 2,812 | 1,137 | 6,059 | 492 | 3,297 |
32 | 2,701 | 15,549 | 647 | 3,918 | 1,287 | 6,137 | 495 | 3,338 |
33 | 3,613 | 15,447 | 662 | 3,919 | 1,368 | 6,065 | 498 | 3,386 |
34 | 3,619 | 14,121 | 685 | 3,871 | 1,466 | 6,442 | 481 | 3,490 |
35 | 3,622 | 15,522 | 727 | 4,050 | 1,556 | 8,644 | 615 | 3,491 |
36 | 3,625 | 15,306 | 763 | 4,270 | 1,556 | 7,977 | 632 | 3,494 |
37 | 3,648 | 15,383 | 989 | 4,344 | 1,596 | 8,304 | 641 | 3,564 |
38 | 3,715 | 15,619 | 1,041 | 5,152 | 1,683 | 9,382 | 602 | 3,653 |
39 | 3,976 | 16,207 | 1,174 | 5,752 | 2,581 | 9,778 | 503 | 2,949 |
40 | 4,106 | 16,774 | 1,540 | 7,298 | 3,730 | 20,450 | 570 | 3,056 |
41 | 4,488 | 18,056 | 1,735 | 8,524 | 3,960 | 16,010 | 618 | 3,752 |
42 | 4,583 | 18,585 | 1,758 | 9,204 | 4,116 | 20,232 | 668 | 3,315 |
43 | 5,064 | 21,221 | 2,051 | 8,483 | 4,293 | 17,038 | 580 | 3,587 |
44 | 5,085 | 21,742 | 2,226 | 10,844 | 4,353 | 18,696 | 760 | 4,027 |
大正元年 | 5,127 | 22,597 | 2,913 | 12,759 | 4,372 | 20,801 | 823 | 4,327 |
この時期の人口動態の特徴は、品川町のように早くから市街化した地域、それに平塚村のように農村地域は比較的緩やかに人口増加をみせているのにたいし、大井・大崎のふえ方には驚くべきものがある。
大井・大崎は、明治三十七・八年の日露戦争後、とくに四十年から急速に増加しているのが注目される。これらは日露戦争後の資本主義の発展にともなう必然的な結果であった。大崎の場合目黒川沿岸の工場新設がこの時期からめだってくる。大崎所在の工場創業年代は、明治三十八年までは八工場にすぎず、それも明電舎を除くと大部分は五〇人以内の小規模工場であった。ところが日露戦争後の明治三十九―四十三年の五年間に九工場、明治四十四―大正四年の五年間に一九工場が創設された。これらの新設工場には四〇〇人以上の工場一つを含み、比較的規模の大きなものが多い。同じように大井の場合も、立会川の豊富な水と地盤の固い台地という自然環境に加え、大正三年には大井町駅も開業し、急速に軽工業・紡績・重工業・精密機械工業の工場が新設される。これにともない住宅・商店街も形成されることになった。この傾向は大正期の第一次大戦後は平塚村も含めてさらに大きく変化していくわけであるが、このことについてはまた別の項で述べる。
このような人口増にともない、明治四十一年八月一日から大井・大崎両村はともに町制を施行し、それぞれ大井町・大崎町となった。このことは当然町村財政に反映する。この時期の財政をうかがいうる資料はわずかに品川町・大井村のものに限られるが、以下に若干それを分析しながら、財政状態を概観してみよう。
品川町については、明治後期の財政資料は、明治二十三・三十五・四十五年の歳入・歳出決算表だけしかのこっていないが、それからでもいくつかの特徴を指摘できる。
年度 | 明治23年度 | 明治35年度 | 明治45年度(大正元) | |
---|---|---|---|---|
款 | ||||
円 | 円 | 円 | ||
財産より生ずる収入 | 14,420 | 141,502 | 522,505 | |
手数料 | 276,367 | 577,100 | 1,010,400 | |
雑収入 | 27,000 | 4,459,718 | 9,325,592 | |
繰越金 | 877,995 | 3,481,727 | ||
(C) | 国庫交付金 | 161,411 | ||
府税補助費 | 33,642 | 15,390 | 663,449 | |
交付金 | 1,138,073 | 4,751,877 | ||
寄付金 | 3,500 | 70,000 | 185,340 | |
(B) | 町税 | 2,002,294 | 11,815,760 | 34,439,160 |
土地売却代 | 400,680 | |||
借入金 | 9,000,000 | |||
合計 | 2,518,634 | 19,095,538 | 63,780,730 | |
学校関係歳入※ | 3,637,100 | |||
(A) | 総計 | 6,155,734 |
※ 品川町は明治23年度に限り,品川小学校,城南・洲崎小学校歳入・歳出決算を独立会計としている。
まず第一に、第29表の指数があきらかにしているように財政規模は、明治二十三年から明治四十五年のわずか二十数年間に一〇倍以上に膨脹していることである。とくに日露戦争以後急速に膨脹したことは明らかである。そして、その財源のもっとも主要なものはいうまでもなく、町税にあった。明治二十三年には歳入総額の三二・五%であった町税は、三十五年には六一・八%、四十五年度には五三・九%となっており住民負担の増加を示している。これは単に人口増加に伴う諸事務の増加というものではなく、国政委任事務の増加によるものであった。政府は本来国が担任すべき事務を法律命令によって町村に支出を義務づけた。こうして事務は日清戦争後次第に増加しながら、国庫補助等はきわめてわずかで、三%から八%を占めるにすぎなかった。
年度 | 明治23年度 | 明治35年度 | 明治45年度 |
---|---|---|---|
歳入指数 | 100 | 310 | 1,036 |
(B)/(A) | 32.5% | 61.8% | 53.9% |
(C)/(A) | 3.1% | 6.0% | 8.5% |
〔資料〕『品川町史』下巻より作成
第二の特徴は、支出に見られる学校教育費の大きさである。〔第30表〕にみられるように、経常教育費と臨時教育費を合わせたものが、歳出総額の五〇%をつねに超えるという状態である。この点は日露戦後の明治四十年、義務教育年限が四年から六年に延長されることでいっそう町財政を圧迫した。〔第28表〕にみられる明治四十五年の九、〇〇〇円の借入金も教育費充当のためのものであった。他方役場費はむしろ相対的には減少する傾向にあったことも注目すべきことであろう。そして町本来の仕事である勧業費などはほとんどとるに足らないものであった。
年度 | 明治23年度 | 明治35年度 | 明治45年度(大正元) | |
---|---|---|---|---|
款 | ||||
円 | 円 | 円 | ||
役場費 | (B) | 1,476,045 | 3,818,866 | 9,803,840 |
会議費 | 24,228 | 37,580 | 74,550 | |
土木費 | 224,038 | 760,372 | 931,030 | |
教育費 | (C) | 3,429,579※ | 8,086,830 | 24,870,492 |
衛生費 | 148,355 | 128,505 | 926,290 | |
救助費 | 3,840 | 76,165 | 1,847,880 | |
警備費 | 269,060 | 765,700 | 981,370 | |
勧業費 | 84,694 | 15,340 | ||
諸税負担 | (E) | 1,281,098 | 1,750,950 | |
公債費 | 910,000 | 9,183,670※※ | ||
雑支出 | 2,587,500 | |||
財産管理費・基本財産蓄積費 | 443,920 | |||
臨時教育費 | (D) | 1,001,525 | 9,628,030 | |
補助費 | 8,000 | |||
繰越金 | 580,609 | 2,144,203 | 727,862 | |
合計 | (A) | 6,155,734 | 19,095,538 | 63,780,730 |
※ 明治23年教育費は独立会計になっているが,ここに入れた。
※※ 項目は借入金〔償還金〕となっている。
年度 | 明治23年度 | 明治35年度 | 明治45年度 |
---|---|---|---|
歳出指数 | 100 | 310 | 1,036 |
(B)/(A) | 23.4% | 19.9% | 15.3% |
(C)+(D)/(A) | 57.3% | 47.5% | 54.0% |
(E)/(A) | 6.7% | 2.7% |
大井村の場合にも品川とほぼ同じ傾向がより極端の形で現われている。その財政規模は二十数年間に約二〇倍という恐るべき膨脹をみせ、町税はついに明治四十五年には歳入総額の七一・六%を占めるに至っている。先に指摘した国政委任事務の増大と、工場進出にともなういろいろな業務の増大にもかかわらず、法律によって財源を厳しく制限されていた村当局にとっては町税に財源を求める以外にはなかったのである。
年度 | 明治23年度 | 明治30年度 | 明治35年度 | 明治40年度 | 明治45年度 | |
---|---|---|---|---|---|---|
款 | ||||||
円 | 円 | 円 | 円 | 円 | ||
財産より生ずる収入 | 318,963 | 510,763 | 112,647 | 12,763 | ||
使用料及手数料 | 26,800 | 59,125 | 340,150 | |||
雑収入 | 235,210 | 524,230 | 970,910 | 2,256,900 | 4,739,629 | |
繰越金 | 48,925 | 187,105 | 526,834 | 600,000 | 247,576 | |
国庫下渡金 | (C) | 44,365 | 52,773 | |||
府税補助金 | 27,950 | 3,685 | 59,150 | 372,405 | ||
交付金 | 84,152 | 326,676 | 336,960 | 1,627,320 | ||
町村税 | (B) | 872,977 | 1,345,919 | 4,331,970 | 8,730,730 | 22,525,955 |
寄付金 | 813,120 | |||||
特別税 | ||||||
町村債 | ||||||
基本財産繰入金 | 758,000 | |||||
基本財産借入金 | ||||||
合計 | (A) | 1,520,440 | 2,732,892 | 6,299,522 | 12,055,628 | 31,424,155 |
年度 | 明治23年度 | 明治30年度 | 明治35年度 | 明治40年度 | 明治45年度 |
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歳入指数 | 100 | 179 | 414 | 792 | 2066 |
(B)/(A) | 57.3% | 49.2% | 68.1% | 72.4% | 71.6% |
(C)/(A) | 2.9% | 6.0% | 5.2% | 3.3% | 6.4% |
〔資料〕『大井町史』折込表より作成
支出における大宗はいうまでもなく教育費と役場費であるが、明治三十五年以降公債費があらわれてくる。つまり町村が起債をなし、その返済元本・金利が歳出決算表にあらわれてくるのである。
年度 | 明治23年度 | 明治30年度 | 明治35年度 | 明治40年度 | 明治45年度 | |
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款 | ||||||
円 | 円 | 円 | 円 | 円 | ||
会議費 | 4,750 | 8,736 | 11,590 | 7,680 | 7,080 | |
役場費 | (B) | 623,838 | 954,206 | 1,897,633 | 2,373,000 | 5,078,707 |
土木費 | 4,894 | 77,465 | 28,433 | 146,150 | 1,597,753 | |
教育費 | (C) | 555,876 | 1,257,322 | 3,369,972 | 5,462,060 | 12,566,483 |
衛生費 | 23,652 | 40,960 | 79,005 | 166,740 | 164,800 | |
勧業費 | 47,107 | 2,000 | 1,650 | |||
救助費 | 8,500 | 2,600 | 16,000 | 318,030 | ||
警備費 | 198 | 3,000 | ||||
財産費 | 120,631 | |||||
諸税及負担 | (D) | 91,812 | 468,638 | 376,400 | 542,265 | |
雑支出 | 18,222 | 16,000 | 810,051 | |||
基本財産造成費 | 3,486,598 | 345,225 | ||||
公債費 | 343,710 | 9,725,700 | ||||
合計 | (A) | 1,304,822 | 2,468,018 | 6,266,910 | 12,055,628 | 31,358,879 |
年度 | 明治23年度 | 明治30年度 | 明治35年度 | 明治40年度 | 明治45年度 |
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(B)/(A) | 47.1% | 38.6% | 30.2% | 19.1% | 16.2% |
(C)/(A) | 42.6% | 50.9% | 53.1% | 45.4% | 40.0% |
(D)/(A) | 7.0% | ― | 7.1% | 3.1% | 1.1% |
以上のように、財政規模の拡大はそのまま町村の発展を示すものではなく、むしろ国政委任事務の増大、就中、教育費の増大こそ町村財政を圧迫し、住民への負担を大きくさせた。しかもこれらが営業税、地方諸税の増徴、あるいは消費税などの間接税の増徴と合わせると、都市住民の税負担はきわめて大きなものとなった。このような国家による大衆負担の増大こそ、日露戦争後にしばしば大都市にみられる民衆騒擾の原因となるものであった。