憲法発布と帝国議会の開設

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新しい地方自治制度の発足は、それ自体憲法発布による立憲政体移行への準備の一つであった。明治二十二年二月十一日、大日本帝国憲法が発布された。日本国民はひとしくこれを歓迎した。しかしその内容は、国民の喜びにもかかわらず、基本的人権の保護という考えは稀薄で、すべて法律の定めるところによって制限され、また議会の権限も極度に制限されていた。他方天皇の権限はきわめて大きく、従って君主の大権に基づく政府の権限もひじょうに大きなものであった。それは一口にいってプロシャ憲法を模倣した大権主義的憲法で、三権分立にもかかわらず、行政執行権は立法権に優越するという外見的立憲主義に基づくものであった。

 しかし、この憲法によって、国民が十数年来熱望し、自由民権運動を全国的に展開して要求してきた衆議院が開設されたのである。第一回衆議院議員選挙は翌二十三年七月一日に行なわれた。選挙権・被選挙権には財産上の制限がつけられており、直接国税一五円以上を納めるものとされた。これは大地主あるいは中地主上層にきわめて有利なものであった。そのため当時の有権者は全人口のわずか一・二四%にすぎなかった。

 当時の選挙は小選挙区制で、東京は全部で一三選挙区にわかれ、品川地域の属する荏原郡は伊豆七島とともに第十二区で、定員は一名であった。この選挙区の選挙人は五九七人であった。当時荏原区の人口八万六六八五人、伊豆七島は五、〇九四人(明治二十年十二月現在)であるから、総人口に対する有権者の比率は〇・六五%、つまり一、〇〇〇人につき六・五人という限られたものであった。このことは都市民の政治的権利がいかに保証されていないかを示している。この数は選挙法が改正され、選挙資格が国税一〇円以上にまで拡大される明治三十三年までほとんど変化していない。

 小選挙区時期の荏原郡・伊豆七島の選挙結果はどうであったか。〔第36表〕からもわかるように、第一回選挙では品川区域の有力者、品川町の高木正年、大井村の平林九兵衛、品川町の鳥山貞利の三人の争いであった。三人ともこの地域の名望家として戸長・町会議員、さらに東京府会議員として郷党によく知られた存在であった。わが国最初の総選挙として、はげしい選挙戦が展開されたが、この時は結局最も若い高木正年が改進党系の支持を受けて栄冠をかちえたのであった。

第36表 衆議院議員選挙結果(第1回~9回)
回数 立候補者 所属政党 得票数 当落 備考
第一回 高木正年 議員集会所 302 第12区(荏原郡・伊豆七島),定員1(以下同じ)
施行,明治23.7.1
選挙人597,棄権31,無効2
平林九兵衛 自由党 244
鳥山貞利 無所属 12
その他 6
第二回 平林九兵衛 中央交渉倶楽部 318 施行,明治25.2.15
選挙人580,棄権26,無効0
高木正年 改進党 162
その他 15
第三回 高木正年 改進党 271 施行,明治27.3.1
選挙人594,棄権66,無効1
平林九兵衛 国民協会 249
その他 7
第四回 高木正年 改進党 303 施行,明治27.9.1
選挙人623,棄権71,無効1
大岡育造 国民協会 246
その他 5
第五回 平林九兵衛 国民協会 271 施行,明治31.3.15
選挙人616,棄権78,無効1
高木正年 改進党 228
その他 48
第六回 高木正年 憲政党 330 施行,明治31.8.10
選挙人740,棄権120,無効1
平林九兵衛 帝政党 282
その他
第七回 村野常右衛門 政友会 1,439 選挙法改正,大選挙区制で,東京府郡部は第5区,定員5名(以下同じ)
施行,明治35.8.10
選挙人10,381,棄権1,096,無効114
関根柳介 1,383
比留間邦之助 1,319
堀田連太郎 憲政本党 1,302
漆昌巌 政友会 1,141
浅香克孝 憲政本党 942
相沢喜兵衛 政友会 839
高木正年 憲政本党 753
その他 52
第八回 村野常右衛門 政友会 1,458 選挙人10,381 棄権1,379 無効58
施行,明治36年3月1日
漆昌巌 1,390
関根柳介 1,326
堀田連太郎 憲政本党 1,292
浅香克孝 1,212
比留間邦之助 政友会 1,181
高木正年 憲政本党 1,059
その他 27
第九回 森久保作蔵 政友会 1,322 選挙人8,038,棄権763 無効48
施行,明治37年3月1日
村野常右衛門 1,182
漆昌巌 1,148
関根柳介 1,072
堀田連太郎 憲政本党 968
井上隆治 自由党 541
その他 58

 

 ところで、開設当初の議会は、政府の軍備拡張を軸とする富国強兵の積極政策にたいして自由党・改進党の民党は民力休養・経費削減を主張して政府に肉薄し、しばしば衝突をくりかえした。その結果早くも第二議会では衆議院の解散が行なわれた。この第二回臨時選挙は、有名な内務大臣品川弥二郎を先頭とする政府の民党候補者に対する選挙大干渉が行なわれた。

 この時には、東京第十二区からは民党の一翼を担う改進党からは高木正年が、政府の方針を支持する吏党の中央交渉倶楽部からは、平林九兵衛が立候補し、激しい選挙戦を演じ、官憲の激しい選挙妨害を受けた高木が落選し、平林が前回の雪辱をなしとげる結果となった。

 このように、衆議院選挙は明治三十一年八月の第六回選挙まで、品川地域出身の高木と平林の両者によって争われ、議席はしばしば入れ替わることになった。

 明治三十三年山県内閣によって選挙法が改正され、財産制限は直税国税一〇円以上となり、わずかに緩和された。それでも有権者数は全人口の二・二%にすぎなかった。この時選挙区割も改正され大選挙区制となり、品川地域は全郡部を包含した東京第五区に属することになった。定員は五名である。第五区の有権者は明治三十五年の第七回選挙の時一万〇三八一人、当時の郡部人口は約六二万人を超えているから、選挙権が拡大されたとはいえ、有権者はほぼ六〇人に一人の割合でしかなかった。

 この時以来選挙の様相は若干変わってきた。平林九兵衛の地盤を引きついで政友会所属の漆昌巌が出馬し、憲政本党(旧改進党の流れをくむ)の高木正年と争うことになった。両者の選挙戦は、大正期まで続くことになり、それはまさに二大政党対立期の日本政党史の縮図を示すものであった。このことについては別項で改めて書くことにする。