農業の概況

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明治二十二年二月十一日に、現在では「明治憲法」といわれる大日本帝国憲法が公布され、翌二十三年十一月には、第一回帝国議会が開かれた。これらに先立って、明治二十一年四月、明治政府は地方自治制度を改革するために、市制・町村制を公布してゆく。しかも東京を含む大阪・京都の三つの重要都市は、地方自治の「特例」によって、明治政府の末端機関に組みこまれようとしていた。このような「市制特例」の実施は、東京府下の諸町村にも大きな影響を与えてゆくこととなる。具体的には、町村の分合がそれであって、いわば幕藩体制下の区域と同じであった各村落が、分合・統一されることとなったのである。区域内農村についていえば、品川村・大井村・大崎町・平塚村の誕生がそれであった。

 このような明治政府の行政的の改革とならんで、資本主義化の波はひたひたと区域内農村にもおしよせていたのである。東京市の近郊農村としての蔬菜栽培を中心とした高度な商品作物生産の展開と、工場用地化あるいは宅地化が、その主な内容をなしていたのである。

 ほぼ、このような事情を背景として、府下各農村の概況を示したのが次表である。共通してみられることは、第一は一町歩未満の農民層が全体の八〇%以上を占めている点であり、第二にはすでに検討したように、江戸川・荒川沿岸の南葛飾郡の高生産力の地域を最高にして、五反未満層の比率が高い点である。さらに、第三には区域内農村が包含される荏原郡は各階層を通じて畑作農民の比率が高く、総じて五反未満層の増大化傾向がうかがえよう。さらに、荏原郡全体の米麦生産の概況を示したのが、上の表である。この時期には各区域町村別の数字を示しえないので、荏原郡全体の数量を表示するしか方法がない。米作については、糯米(もちこめ)・粳米(うるちまい)を一括し、麦作についても、大麦・裸麦・小麦を一括した。特徴的なことは、米作は余り生産の増大がみられず、反収も日露戦争後にやや増加するにすぎない。麦作も作付反別は漸減を示し、反収も明治三十年代にやや増加を示してはいるが、米作と同じく日露戦後に増大してゆくのである。

第37表 明治22年,各郡における階層分化

(『目黒区史』59ページ)

所有面積 5反歩未満 5反歩以上 1町歩以上 5町歩以上 10町歩以上 田畑合計
地域別
荏原郡 人数 3,782 5,117 648 1,285 457 1,113 10 43 7 15 12,477
百分比 71.3 15.5 12.6 0.4 0.2 100.0
東多摩郡 人数 1,305 1,284 290 703 64 917 0 37 0 1 4,601
百分比 56.3 21.6 21.3 0.8 0.0 100.0
南豊島郡 人数 522 1,059 56 312 20 229 2 6 0 1 2,207
百分比 71.6 16.7 11.3 0.4 0.0 100.0
北豊島郡 人数 3,626 4,281 526 1,481 429 1,280 25 58 5 8 11,719
百分比 67.5 17.2 14.5 0.7 0.1 100.0
南足立郡 人数 2,099 2,570 700 503 653 197 32 5 13 1 6,773
百分比 69.0 17.8 12.6 0.5 0.1 100.0
南葛飾郡 人数 3,764 5,473 897 443 1,076 206 75 10 38 0 11,923
百分比 77.4 11.3 10.3 0.7 0.3 100.0

 

第38表 荏原郡の米穀生産

(『東京府統計書』)

種類 米作 麦作
項目 作付反別 収穫高 反収 作付反別 収穫高 反収
年度
明治20 2,323 43,864 1.888 3,974 52,366 1.317
 25 2,586 45,224 1.489 3,762 45,177 1.200
 30 2,625 32,750 1.256 3,814 64,644 1.694
 35 2,600 31,223 1.101 3,762 55,474 1,474
 40 2,584 34,345 2.025 3,611 77,852 2,155
 45 2,515 42,933 1.706 3,353 65,811 1,962