第二回農談会と蔬菜生産の動き

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このような動きのなかで、第二回の全国農談会が、明治二十三年五月十三日から五日間、東京京橋区木挽町(現在の中央区銀座七丁目)の厚生館で開かれた。明治十四年の第一回全国農談会と同じく、第三回内国勧業博覧会にあわせて、各府県から四名の老農と学識経験者たる員外招待員との総数一三四名が出席した。前回はまさに「民権勃興時代」にあたっており、明治政府としては、在地の老農を勧農政策の下におしとどめ、いわゆる自由民権運動に参加させないためでもあったといわれている。第二回の農談会はいわば「企業勃興期」を経過した後の明治二十年前半の時点で、明治政府の勧農政策が転機を迎えつつある段階にあたっていた。一方では明治二十二年の凶作とも絡む経済的不況が生じた時点に当り、他方では、従来の老農技術が、導入された西洋農学理論によって縦横に分析・検討されて、その多くが否定されてゆく運命が明かになりつつあった時点に合致していた。それゆえ、そこでの中心議題は、農商務省農務局の下付した「農家経済の現状並に之が上進を図るの手段」と、大日本農会の提出した「各地方重要農産改良の要点」であった(明治二十三年『大日本農会農談会報告』謄写版解題)。

 ところで、この第二回農談会にも、荏原郡からは北沢村大字上北沢出身の鈴木久太夫が出席し、次のようにのべている(前掲『大日本農会農談会報告』)。

 府下農家の現状は、農夫は早起して草を刈るを常とす、耕地は田少なくし圃多し、作物は大麦、小麦、陸稲、粟、黍、〓、胡麻、荏、小豆類なり、穀物及び甘藷、青芋等良品は売物となし、悪しきものを常食とす、務めて穀物を残すを主とす、其余業に養蚕・製茶をなす、夜業に男は藁縄を綯ひ、女は屑繭を糸に製す、冬より春に及ひて薪を貯へ置き京に鬻く、肥は一人車を以て運ふを常とす。

 ここで語られていることは、極めて停滞的な農業生産の状況を示しているように思う。さきの米麦の反収の実態とも合致しているのである。

 もちろん、後述する荏原郡農会が、農事改良方法として「塩水選温湯浸法」や「短冊苗代」の奨励など積極的な唱道を試みているように(『東京府農会報』明治三十六~三十八年)、目黒川沿岸ないしは、品川・三田両用水による水稲栽培地帯をのぞいた畑作経営にも、除々に変化が生じていることは否定できない。一般的には地域差を包含しながらも、東京周辺の近郊農村として、販売のための商品作物生産へと移行してゆくといわれている。そこでは、市外区域へ効外住宅地・工場用地が進展してゆく状況に対応して、まず短期間に育ち、かつ高い新鮮度の要求される葉菜類(せり・ねぎ・小松菜など)の栽培が始まる。当然、かかる蔬菜類の生産には多量の下肥が必要であり、市街地に近い条件が有利であったといえよう。つぎには、この葉菜類に対して果菜類(なす・きうり・かぼちゃなど)と根菜類(大根・にんじん・ごぼうなど)とが栽培されるが、これも多肥作物であり、多くの集約労働力と必要とし、市街地に近いことが条件と考えられよう(『目黒区史』)。区域内農村の実態について、これを十分にあとづけることはできないが、旧中延村の一農家の栽培状況を示したのが第39表である(芳根家文書、『地図統計集』)。

第39表 旧中延村の農作物販売状況

(明治27年)

2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 (小計)
作物名
円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭
タケノコ 16 96.3 7 59.3 24 55.6
キウリ 1 50.5 2 92.0 51.0 4 93.5
ダイコン 46.0 30.0 32,0 1 49.7 4 83.0 24.5 7 65.2
ジャガイモ 1 00.0 1 00.0
ナス 2 46.2 2 51.6 3 12.9 76.0 8 86.7
スイカ 70.0 3 44.0 4 14.0
トウナス 3 18.0 1 00.0 1 01.0 3.4 5 22.4
シロウリ 1 79.9 89.0 2 68.9
ツケナ 4 12.4 1 11.4 68.8 5 92.6
ヤツガシラ 53.0 53.0
タイモ 55.0 51.6 1 06.6
イモヅラ 8.6 8.6
(小計) 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭
16 96.3 7 59.3 2 96.5 11 36.1 8 35.6 3 44.9 7 39.1 7 02.4 1 56.9 66 67.1

 

(明治35年)

2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 (小計)
作物名
円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭
大麦 1 44.6 3 56.0 5 00.6
ダイコン 75.0 3 50.0 8 80.0 13 05.0
コマツナ 18.7 18.7
タケノコ 31 32.0 18 86.5 15.0 50 33.5
キウリ 5 24.0 12 30.0 6 75.0 17 4.0 26 03.0
ジャガイモ 7 68.0 7 68.0
竹材 1 300.0 13 00.0
トウナス 7 63.5 4 04.0 11 67.5
タイモ 3 00.0 3 00.0
ナス 2 07.0 12 90.0 12 65.0 2 80.0 30 42.0
穀類 26 18.5 26 18.5
ツケナ 2 11.7 6 16.0 8 27.7
ヤツガシラ 1 14.0 1 14.0
天王寺カブ 1 37.0 1 37.0
(小計) 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭 円 銭
2 38.3 31 32.0 22 42.5 26 07.0 22 00.5 23 69.0 14 39.0 9 30.0 37 10.2 8 67.0 197 35.5

(芳根家文書)

 旧中延村におけるこの形態は、前述の果菜類・根菜類の栽培地域に入るかと考えられるが、日清戦争時の明治二十七年と日露戦争以前の明治三十五年とを比較すると、いくつかの特徴が示されているといえよう。第一は、周知のように「筍」生産の比重の高さである。これは両時点に共通している。第二は、根菜類に入る大根の比重が高く、果菜類に入る「トウナス」の比重も高い。第三は、明治二十七年から三十五年にかけて、販売金額が約三倍に増大してゆくが、キウリ・ナス・トウナスにむしろ比重が高まってゆく傾向を示している。

 すでに、明治十年六月南品川宿青物横町にあった品川青物市場は、東京府の認可をうけているが、東海道線品川駅にも近く、かつ東京湾・目黒川にも接近していて、海陸ともに便利な地点であったから、果菜類・根菜類の販売にも好都合であったとみてよい(『品川町史』下巻九四二ページ)。明治二十五年現在の青物市場の分布をみると、城南地域では品川青物市場が唯一であった(『東京百年史』第三巻)。