農会と用水問題

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明治十八年五月までに、荏原郡農談会は、五回の農談会を開いたが、翌十九年三月十二日には農業会に組織変更して、明治二十一年三月までに第五回の会合をもった。さらに明治二十三年には私立農談会に変更し、郡内で会員百二十余名を集めたといわれている(『品川町史』下巻、八一七ページ)。おそらくそれ以後、農談会と品評会との統合が試みられ、漸次系統化し、明治三十一年十月の荏原郡農会へ結実してゆくこととなったものと考えられる。この荏原郡農会創立には、品川町山本重興・大崎町海老沢啓三郎・平塚村平沢作太郎・大井村田中肇らが発起人となっている(『目黒区史』資料編)。この設立の前提には各町村農会の設立があり、品川大崎連合農会はこれより早く、同三十一年二月に設立されているのである。いってみれば、区域内町村別の農会が、地主ないしは町村長クラスを中心に設立され、それを基礎として、荏原郡長村上佳景を代表とする荏原郡農会が設立されてゆくのである。このことは全国的にみれば、個々の農業技術的農業改良の団体から、農政的な農業改良の団体に発展強化されてゆくことを意味していた。その法制的裏付けが明治三十二年に公布された農会法なのであるが、農会の会員資格として、「地租二円以上納める者、もしくは田畑四反歩以上所有する者」とされた点、あきらかに土地所有者を主体とし、実際の耕作者を中心にはおいてなかったのである(『日本農業発達史』第三巻)。残念ながら、区域内の各町村農会の実態や機能は明らかでない。

 農談会から農会への編成替えに対応して、品川用水・三田用水についても法的規制が加えられてゆく。すなわち、前述したように、明治二十一年四月の市制および町村制の公布により、品川用水を例示にとれば、上表のような編成をとることとなった(以下は、『品川用水沿革史』)。明治末に向かって漸次灌漑面積が減少してゆくのであるが、明治二十三年六月、法律第四十六号による水利組合条例が布達され、組合管理者たる村上荏原郡長は、翌明治二十四年一月、当区域内の品川町・大井村・平塚村・大崎村および現在大田区に属する入新井村をもって組合区域とし、従来の品川用水組合の事業を継承すべく「普通水利組合設置」願を東京府知事に提出、同年三月二十五日に認可された。同時に、従来の各町村別の分水は、内堀として、各「内堀普通水利組合」として設置が認可され、各町村長がそれぞれ管理者となった。ここに町村の付属から独立して「純然たる人的結合体」となり、「土地所有者の目的団体」となったわけである。さらに、明治四十一年四月には法律五十号による「水利組合法」が制定公布され、改めて新規約をつくり、同年十二月廿二日に許可されている。このように、畑作勝ちの区域内農村においても、土地所有者の利害関係を中心とした水利組合に編成・変質せしめられてゆくこととなる。

第40表 品川用水組合の灌漑面積

(『品川用水沿革史』)

町村名 普通水利組合
(明24年3月) (明25年4月) (明28年2月) (明42年12月) (明44年度組合戸数)
反 畝 歩 反 畝 歩 反 畝 歩 反 畝 歩
品川町 403.5 13 401.1 29 391.8 04 385.0 15 97
大井村 782.8 21 801.0 18 798.7 11 798.7 11 215
平塚村 228.1 15 236.4 03 236.4 03 236.4 02 92
大崎村 458.1 01 464.2 22 457.2 15 420.8 24 125
入新井村 24.9 06 25.2 06 25.2 06 25.2 06 10

 

 品川用水を中心として、区域農村の水田耕作に主要な役割を果たしている用水問題をみると、明治後期は用水組合の運営が、町村費によった段階から、純然たる組合費経済へ移行してゆく時期にあたっていた。この点は、前述した農会のあり方と同じく都市近郊化の進展と対応しているものといってよい。ここから二つの問題が発生してくることとなる。一つは、水車営業の問題であり、もうひとつは、護岸工事および水路の浚渫であった。前者は、後述するように、目黒川沿岸を中心に近代工業の形成・展開がすすむにつれて、それら諸工場の動力源として利用されてゆくのであるが、水利組合に対して収入をもたらすとはいえ、本来の農業用水を利用する立場とは矛盾・対抗を示すこととなる。後者の問題は、古来よりの問題ともいえるが、いわゆる都市化に伴う影響の下で、風水害による溢水あるいは流失土砂は、田畑および工場・宅地へも深刻な影響をもたらす。そして、一部にはセメント利用による護岸工事ないしは分水口の修復・改修が実現されてくるのであるが、たとえば、明治二十五年から翌二十六年に至る「上蛇窪分水口」事件のように区域内諸農村に至大な影響をもたらすことともなった。