維新前における品川の漁猟が、小漁民の自家労働力に頼っておこなわれる小規模なものであったことは、すでにみてきたとおりである(上巻、八三四~八三六ページ)。明治になってからも、その点はほとんど変らなかった。とくに幕末における台場の構築が、大きな打撃を与えたことは否定できない。
明治前期における東京の漁場の実態を、明治十年と十七年についてみると、別表のとおりである。むかし御菜八ヶ浦の元浦のひとつであった品川浦は、船数や漁夫の数において羽田浦や佃島浦に及ばなくなっている点注目すべきである。宅地の増加や工場の建設による漁猟衰退の徴候が、すでにあらわれている。ただ、漁猟の停滞にもかかわらず、後に述べる海苔養殖業の繁栄が、この地域における漁業の衰退をそれほど急速にしなかったのである。
明治二十一年から二十二年にかけての「市町村制実施録」によれば、南品川猟師町の戸数二〇二、人口八八八とある(資四一一号)。その職業上の構成は明らかでないが、八ヶ浦元浦としての命脈はこのようになおひきつがれていた。たとえば、安房・上総から東京湾内に出猟するサハラ網漁船に対する漁船数の制限や、鑑札の貸与をとり仕切ったのは、神奈川浦と品川浦とであり、制限船数五〇艘のうち、品川浦は三〇枚の鑑札を出した(明治十年八月の約定)。
漁場 | 町村名 | 船数 | 漁夫数 | 収益 |
---|---|---|---|---|
円 | ||||
金杉浦 | 芝金杉七カ町 | 10 | 10 | 655 |
78 | 78 | |||
本芝浦 | 本芝四カ町 | 17 | 17 | 1,050 |
49 | 43 | |||
佃島浦 | 佃島 | 240 | 250 | 9,000 |
347 | 101 | |||
品川浦 | 南品川猟師町 | 155 | 305 | 7,300 |
― | 125 | |||
御林浦 | 大井村ノ内林町 | 55 | 80 | 6,600 |
― | 112 | |||
羽田浦 | 羽田村外2カ村 | 700 | 2,100 | 105,000 |
― | 1,507 | |||
袖志ケ浦 | 東西船堀村五カ村 | 260 | 600 | 8,000 |
853 | 831 |
(『東京府統計書』による,上段は明治10年,下段は同17年を示す)
明治十七年の約定書では、安房の各漁村の総代が八ヶ浦に対し、とくに「鰆網ニテ捕魚致候鰆ノ義ハ、旧例取扱来リ候神奈川・品川両所ノ魚商人、則チ鰆網問屋ニ於テ取扱ヲ受可申、其他決シテ自儘ノ売買等致間敷候事」と契約し(第八条)、「旧例取扱来リ候問屋ノ義ハ、我鰆網内海ニ入会スルノ始メ、該問屋ヨリ八ヶ浦ヘ示談ヲ遂ゲ、入会ヲ開キタルニ付、我鰆網ノ如キ内湾ニ入漁スルコト全ク問屋ノ周旋ナリ、依之捕魚鰆ノ義ハ総テ問屋ノ取扱ヲ受クルモノトス」の一条(第十条)を加えている。
二十二年の契約書は、安房のサハラ網実業者委員長三津田次郎右衛門と、八ヶ浦漁業者総代との間にとり交わされた。そのなかで、内湾入漁許可の費用として船一艘につき一円ずつを契約村々に支払い、三津田の事務所を、品川猟師町漁業者総代高石芳太郎方に置くことが規定されている。
このようにサハラ網出猟によって、品川の漁民にある程度の収益が保証された。しかしそこに介在する魚商人または問屋の支配力が、どの程度であったかは明らかでない。維新前における南品川猟師町や、大井御林浦の漁業が、問屋仕込み制度によって問屋支配を受けていたことを思いあわせるならば、このサハラ網をつうじての問屋支配の存在を軽視することはできないであろう。(上巻・八五七ページ参照)