明治初期の海苔養殖

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近世において本場を誇った品川海苔も、その末期には大森村などに押されてやや沈滞の状態にあった。それだけに幕末維新の動乱を機会に、何らかの打開策が望まれたのであるが、大森村が官軍からいち早く東貫森のひび場(いわゆる官軍場)を開く特権を獲得したような積極策は、品川についてみられなかった。しかし維新後商品流通上の封建的制限が撤廃され、また焼海苔への需要の一般化によって商品市場は拡大された。そのため明治初年には一種の海苔ブームが生じ、品川付近にも新しいひび場がふえていった。

 たとえば、明治三年八月九日には、品川猟師町に対して、品川浦にある五番砲台場下に一万五〇〇〇坪のひび場が許可された。その結果、品川猟師町のひび場面積は三万九九〇〇坪に達し、南品川宿分の約五万五〇〇〇坪とあわせて約八万七〇〇〇坪となった。これは天保年間の二倍を上廻るものであった(第48表参照)。

第48表 明治維新前後におけるヒビ場面積変化比較
天保(1830~43)―明治9年(1876)
天保年間 明治九年
地域 坪数 坪数 戸数 一戸平均坪数
南品川宿,海晏寺門前 21,900 86,886 140 626
品川猟師町,品川寺門前 18,965
大井村 52,147 56,045 63 890
不入斗村 3,617 7,316 45 162
大森町 120,254 193,050 500 386
糀谷村 26,637 38,118 93 410
羽田村羽田猟師町鈴木新田 39,000 170 230
合計 241,520 420,415 1,015 414

 

 台場付近の海は、淡鹹両水の最も適度に調和する海苔養殖に好適の場所であった。とくに第一・四・五砲台を抱えた海域と、第二・三砲台東南方の海は最適の場所とされた。これらの場所は、明治四年九月の東京府庁・品川県庁による海境改めによって、品川宿に属することが決定していたので、明治初期におけるひび柵場の拡張において、品川はきわめて優位に立つことができたわけである。かねて品川浦地先海面に海苔の養殖適地が少なくなっていた事情もあって、南品川宿や同猟師町では、廃絶したひび場と台場付近の海との交換を申請しつつ、ひび場面積を拡張していったのである。明治十三年から開始されたこの交換地申請は、十四年から軌道にのり、十六・十七年とつづけられた。


第33図 品川湾海苔ヒビ柵場図