蒲地騒動

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明治十七年十一月の東京湾漁業組合結成を契機として、それまでの自由競争的なひび場拡張は、一転してきわめて協調的なものに変わった。しかし許可をとった海苔場には「海苔小作」の慣行があり、そこから賃貸料としての小作料収益をあげることができた。海苔場の許可申請に、このような利権がからむところから起こったのが、いわゆる蒲地(かまち)騒動である。

 二十年五月、鹿児島県士族蒲地清実(芝愛宕町寄留)は単独で二〇万余坪の養殖場の許可を出願した。その出願地先と面積とは、(イ)一番砲台と五番砲台との間、一万二〇〇〇坪 (ロ)二番と六番との間、二万五〇〇〇坪 (ハ)六番砲台の北、一五万九〇〇〇坪であった。蒲地は海面にまったく既得権をもたない、しかも漁業とは無関係の人物であった。その願書に「従来起業上ニ篤ト研究、屹度見込有之処ヨリ請願仕候次第ニテ、興業ノ上ハ忽チ隆盛ニ至ルハ必然」とあるように、明らかに収益をめざした許可出願であった。

 この出願に関して東京府は、東京湾漁業組合に支障の有無の照会をおこなった。これに対し同組合では、地方取締である大井村の平林九兵衛が代表して意見書を提出し、「一個人之利欲ノ為メ弐拾万有余ノ大坪数ヲ占有シテ、巨多ノ人民ノ迷惑ヲモ不顧願出候趣意、御採用有之間敷ハ勿論ニ御座候ト奉存候」と反対の態度を強く打ち出した。とくに「望ミアル地ヲ一己人ニシテ専有スルヲ目途トスル所、其地ヲ各村人民ニ小作トシテ貸与ヘ、其地代ヲ専有スルニ止リ、己ガ力一二(ママ)人ニシテハ、僅カ弐三百坪ノひび場ヨリ相稼候義ハ不相成筈、海面中差障無之場所有之節ハ、従来稼来候沿海各町村人民ヘ御貸与ヘ被遊候義至当ト相心得候」と、出願者の意図がいかなる点にあるかを見抜き、沿岸漁民の生業上の要求を優先すべきことが強調されている。

 これより先、十九年三月に東京湾漁業組合では一〇万坪の海苔養殖場の借用願を提出していたが、その申請は却下された。そこで組合はやむなくカキ場として一〇万坪を改めて申請し、わずか四万五〇〇〇坪の許可を受けた。このような事実があっただけに、各海苔生産地では、蒲地の出願について強硬な反対運動を展開し、代表者はいれかわり立ちかわり三ヵ月にわたって東京府に日参して反対の陳情をおこなった。それにもかかわらず、府は蒲地に対し一六万坪余の許可を与えた。各浦々では府のこの処置を激しく糾弾して関係各方面に訴えた。その結果府当局も蒲地に対する許可を取消さざるをえなくなり、二十年八月に八万坪は返納、残り八万三〇〇〇坪は南品川宿・同猟師町・大井村・大森村・羽田村に譲渡されることとなった。これら五ヵ村は府から五ヵ年の契約で許可を受け、二十一年二月に大森村が二万六六〇〇坪、大井村・南品川宿・同猟師町がそれぞれ一万六六〇〇坪ずつ、羽田村が六六〇〇坪を分割使用することとなった。これらのひび柵場はその後長く「蒲地場」と呼ばれていた。

 以上のいわゆる蒲地騒動の背後には、旧鹿児島藩士による策動があったといわれている。すなわち、蒲地自身旧鹿児島藩士であり、時の東京府知事高崎五六も、許可の衝にあたる農商課長丸太某も鹿児島出身であった。