明治後期の発展とその後の動向

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蒲地騒動はもちろん生業の場所を守ろうとする海苔養殖漁民の切実な運動であったが、その運動が先に述べたようなたかまりをみせたのは、当時の海苔養殖の繁栄と決して無関係だったとはいえない。その繁栄こそ漁民の自主的な団結と蹶起を支えるものであった。

 すでに明治二十年以前の品川において、海苔養殖の占める経済的比重は決して小さなものではなかった。当時小学校その他の入費の資金繰りのために、共同で新しいひび柵場を開き、その権利を小作に出して小作料収入を得ることがおこなわれた。このような小学校のための柵場を学校場とよんだが、明治十四年の開校とともに、品川の洲崎小学校では学校場を設け、当時の年間予算一八三円四九銭五厘のうち五七円が寄付金であったが、そのほとんどが学校場からのあがりだったという。

 統計的に明治二十年代の品川区域における海苔養殖の状況は、上表(第49表)によって東京府下の海苔養殖における品川・大井の地位とあわせて知ることができる。すなわち、二十四年度における養殖面積は、九年の二・三倍以上に拡張しており、採取製造家数においても二・四倍弱に増加している。しかし、すべての点において品川町は大森村に劣っている。とくに大森村に比較して、品川町の場合養殖面積の割に採取製造家数と生産額が少ない。これは品川の海苔場のなかに、大森村の借用地がかなり含まれているためである。

第49表 東京府下海苔養殖事情一覧(明治24年度)
面積 採取製造家 漁船 産額 価額
千枚
芝区 85,000 159 200 15,900 15,900
深川区 100,000 115 170 2,680 8,040
荏原郡 羽田村 89,468 180 472 22,000 60,000
入新井村 7,316 64 94 1,200 2,400
品川町 205,086 335 179 27,500 66,000
大森村 209,650 916 2,009 57,000 171,000
大井村 92,648 203 381 7,100 21,000
南葛飾郡 砂村 21,000 12 51 600 1,200
葛西村 4 100 400
合計 810,168 1,988 3,556 345,940 345,940

(『海苔の歴史』1152ページ所収)

 三十年代にはいってからも、東京湾、とくに荏原郡内の海苔製造は発展をつづけ、大森村は常にその首位に立ち、品川はその後塵を拝していた。しかし三十年代の終りごろから、品川湾の海苔の付着が悪化し、発芽の時期はおくれ、成長も悪くなった。そのため四十年ごろからは、浦安下や本牧付近などで種付けをして移殖することが多くなり、他にひび場を借りて養殖することも多くなっていった。もちろんこのような状況は品川ばかりでなく、荏原郡内の海苔養殖全般にみられたものであった。大森を中心とする荏原郡の府下の海苔生産における優位は、四十年代にはいってもかわらなかったが、その比重が相対的に低下してきたのは、以上のような事情からであった。それに反して、南葛飾郡の抬頭が顕著となっていった(第50表参照)。

第50表 東京府下海苔養殖状況郡区別百分比
地域 荏原郡 南葛飾郡 深川区 芝区
年次 明治24 明治42 明治24 明治42 明治24 明治42 明治24 明治42
製造者比率 86.9 47 0.1 41 6 10 7 2
面積比率 74.7 61 2.5 22 12.3 11 10.5 6
生産高比率 94.2 87 0.6 10 2.2 2 3 0.3
生産額比率 92.7 88.2 0.4 9.5 2.3 1.9 4.6 0.4

 

 右に述べた状況の変化は、いうまでもなく東京の発展につれての海水の汚染や埋立、港湾改良工事によるものであった。そのため品川の海苔養殖もようやく停滞的状態にはいり、やがて急激に衰退していかざるをえなくなった。いま南品川漁業組合を例にとって、養殖場の増減状況を図示すると第34図のとおりである。とくに大正期以降は急激に下降線をたどっているが、それは昭和三十八年の海苔養殖の終焉にそのままつながるものであった。


第34図 南品川養殖場増減状況