品川線から山ノ手線へ

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日本鉄道会社は、日清戦争前後から都心をひとまわりする鉄道を計画し、田端駅から品川線の目白駅に至るいわゆる豊島線建設工事の調査準備を進めていた。当時すでに、常磐炭田の石炭を東京や横浜に運ぶために建設された磐城線・土浦線をはじめ、日本鉄道会社発着貨物を、隅田川をはじめとする水運に連絡すべく建設された隅田川線を経由して、上野・青森間に直通列車の運転が開始されていた。明治三十一年八月二十三日のことで、海岸線とも称されたが、これが現在の常磐線の前身である。このような状況の下で、品川方面との連絡線が必要となったことはいうまでもない。最初は田端・目白間五・六キロメートルの線路を複線で、工事費四六万円で建設することとした。明治三十二年五月九日、免許状の下付をうけて、着工したが、目白駅付近の住民の反対がつよく、かつ勾配の関係で施工困難なことも次第に判明した。このため、日本鉄道会社は板橋・目白間の巣鴨村(現豊島区)大字池袋に池袋駅を設置、品川線との分岐点を同駅に変更、明治三十四年十一月十六日に改めて許可を得た。用地買収の困難もあったが、単線の田端・池袋五・二キロが明治三十六年四月一日に開通、当初設置されていた池袋信号所を改めて池袋駅とし、あたらしく大塚・巣鴨駅を設置した。この時以後、この豊島線と品川線とを併せて山手(やまのて)線と呼称することとなったのである(『日本国有鉄道百年史』第4巻)。終戦後、占領軍による路線名のローマ次表示が「ヤマテ=ループ=ライン」と誤ったため、われわれにも「やまて線」と呼ばれていたが、去る昭和四十六年三月七日から戦前の「やまのてせん」に戻ったのは、まだ記憶にあたらしい(『汐留・品川・桜木町駅百年史』)。

 なお、品川線の営業状態についてふれておけば、明治十八年三月一日の開業の時は、各駅間が、運賃上等一五銭~一〇銭、中等八銭~六銭、下等四銭~三銭であったが、明治三十年十二月一日から、上・中・下を一・二・三等とし、翌年一月二十一日以降距離の遠近をとわず、運賃は一駅間ごとに一等四銭、二等三銭、三等は二銭と改正された。また運転時刻表は開業の当初は別表のとおりであったが、明治二十四年九月一日、上野・青森間(現在の東北本線)の一日一回の直通旅客列運転開始にともない、品川線の運転回数も一回増加している。さらに、明治三十年代の運転回数を示せば、第53表のとおりであるが、日露戦争時には、軍事用の貨物輸送が著しく増大している点に留意してほしい。

第51表 新橋・品川・赤羽間運転時刻表(明治18年3月1日)
種別 下り 種別 上り
駅名 駅名
午前 午後 午後 午前 午後 午後
新橋発 10.15 2.40 6.35 赤羽発 11.43 4.08 8.04
品川〃 10.24 2.49 6.44 板橋〃 11.56 4.21 8.17
目黒〃 10.35 3.00 6.55 午後
渋谷〃 10.46 3.11 7.06 目白〃 12.06 4.31 8.27
新宿〃 10.58 3.23 7.18 新宿〃 12.17 4.42 8.38
目白〃 11.09 3.34 7.29 渋谷〃 12.28 4.52 8.49
板橋〃 11.19 3.44 7.39 目黒〃 12.39 5.04 9.06
赤羽着 11.30 3.55 7.50 品川〃 12.50 5.15 9.11
新橋着 12.58 5.23 9.19

(『日本国有鉄道百年史』第2巻)

第52表 新橋・品川・赤羽間運転時刻表(明治24.9.1)
種別 下り 種別 上り
駅名 駅名
午前 午前 午後 午後 午前 午後 午後 午後
新橋発 8.10 10.55 1.50 5.00 赤羽発 9.25 12.20 3.15 7.13
品川〃 8.23 11.04 1.59 5.09 新宿〃 9.52 12.47 3.42 7.37
新宿〃 8.48 11.29 2.27 5.37 品川〃 10.17 1.12 4.07 8.02
赤羽着 9.11 11.52 2.50 6.00 新橋着 10.25 1.20 4.15 8.10

(『日本国有鉄道百年史』第2巻)

第53表 日本鉄道品川線・豊島線の運転回数
種別 区間 品川・大崎間 大崎・新宿間 新宿・池袋間 池袋・赤羽間 池袋・田端間
年度
旅客 明治33年 0 0 0 0
34  0 0 0 0
35  0 0 0 0
36  19 19 20 7 13
37  21 21 21 10 11
38  5 5 12 0 12
混合 明治33年 28 28 28 28
34  28 28 28 28
35  28 28 28 28
36  19 19 18 9 9
37  17 17 17 8 9
38  15 17 10 10 0
貨物 明治33年 0 6 6 6
34  0 4 4 4
35  0 4 4 4
36  0 6 6 6 6
37  0 12 12 12 0
38  0 12 10 8 2

(『日本国有鉄道百年史』第4巻)

 なお、周知のように、日露戦争後の明治三十九年三月三十一日の法律第十七号による「鉄道国有法」が公布された結果、日本鉄道会社の鉄道および所属物件は、明治四十一年四月二十五日付で一億四二四九万五一二〇円八二銭一厘の価格で買収が決定された(『日本国有鉄道百年史』第4巻)。