品川馬車鉄道の成立

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馬車も人力車も文明開化の産物といえようが、官設鉄道・日本鉄道の動きのなかでふれたように、ここでは山手線は完全に一周していなかった点にまず注意しておきたい。それゆえ、東京市内の軌道式交通機関として、馬車鉄道が出現し、谷元道之らによって設立された東京馬車鉄道が明治十二年二月、新橋を起点として、上野を結ぶ乗客輸送を開始したのは当然の成行と考えられよう。明治十五年十月までに、新橋―日本橋、日本橋―上野、上野―浅草と浅草・新橋間全線の開通をみたが、その馬車の車体は木造、二頭立てで、乗務員は馭者と車掌の各一名で、一両の定員は二四名ないし二七名であった。開業当初は全線に三〇台から四〇台の車両が運転され、毎月平均三〇〇円余の乗車賃収入をあげていたといわれている。広い所は複線、狭い所は単線で、待合室も設置し、馬喰町では馬をとりかえ、車台の点検もおこなっていたという。夜ともなれば、ランプの色ガラスを用いて、方向を区別し、区間に関係なく往復切符を発行して、乗客のサービスに努めたという。「鉄道馬車は便利だね、一区二銭白い旗なら出るんだよ、赤い旗なら待つんだよ」といわれたというから、現在からみると至極のんびりしたものであった(『東京百年史』第三巻)。

 このような動きに対応して、品川町漆昌巌を委員長(現在の社長格)とした品川馬車会社が資本金五万円で、明治二十二年十月に創設されている。

 翌二十三年二月には、倍額増資をおこない定款も改正されているが、本社を当区域品川町の品川歩行新宿三十一番におき、支社を芝(現港区)高輪南町三十番地に設置した。営業は、「警察令第三十号布達ニ基キ改良乗合馬車ヲ新造」して、品川・新橋・上野・浅草間と品川・大森・川崎・大師河原間の二線があり、無軌道式乗合馬車であったため、鉄道馬車に比べて乗心地が悪く、その営業成績はよくなかったという(資四四九号)。かくて、明治三十年十二月には軌道式に変更し、品川馬車鉄道株式会社と改称し、さきの東京馬車鉄道との競争を開始することとなり、一両一八人乗り、馬一頭引きで、車両三〇台ほどを運転、一日平均一五〇円前後の収入をあげたといわれている。しかし、明治三十二年六月十九日付で、品川馬車鉄道は解散し、事業の全部を東京馬車鉄道に譲渡した。かくて、東京馬車鉄道は東京市内の馬車鉄道を一手に独占、明治三十年代中頃には、馬車三〇〇両、馬二、〇〇〇頭で、その乗車料金の年間収入は、一四〇万円にも達したといわれている(『東京百年史』第三巻)。