ふつう明治三十九年の鉄道国有化を契機として、「国有鉄道と私有鉄道の比重」が一挙に逆転したといわれている。しかもこれと平行して、すでに都市交通の近代化を示す電気鉄道ないしは、市内路面電気鉄道の形成も推進されていったのが実情であった(中西健一『日本私有鉄道史研究』)。すでに第三回内国勧業博覧会が明治二十三年五月に、上野公園で開催された折に、東京電燈株式会社は、本邦における電気工学の先駆者であり、本邦における白熱電球の創作者ともいうべき藤岡市助の指導を得て、その会場構内四町間の距離に、スプレーグ式電気鉄道の展示と運転をおこなっている。電車の車体は、その内部の両側に座席二二人分を設け、各車両はいずれも一五馬力の電動機を備え、電圧は五〇〇ボルトで、その入場者から二銭の料金をとって試乗させ、博覧会の催し物として、大変人気があったといわれている(『東京電気株式会社五十年史』)。
このような情勢の下で、東京馬車鉄道株式会社は、明治二十六年十一月、動力変更を決議して、電気鉄道敷設許可願を内務省に提出している。これにつづいて、いっぽう東京馬車鉄道以外の出願者たちは、合同して「東京電気鉄道株式会社」という名称で同様の出願をしている。これがのちの東京市街鉄道株式会社となるのである。いっぽうの東京馬車鉄道は日清戦争後明治三十三年十月に、複線架空式による電気鉄道敷設の認可をうけたので、アメリカからいろいろな材料購入をおこない、資本金も従来の一七〇万円から五〇〇万円に増資し、明治三十五年六月には、その社名を「東京電車鉄道株式会社」と改称した。かくて、翌三十六年八月二十二日から、品川・新橋間の電車運転を開始、十一月には新橋・上野間、明治三十七年三月には、上野・浅草橋間が開通した。東京市街鉄道の方も、明治三十六年九月に、数寄屋橋・神田橋間、十月には日比谷・半蔵門間、十一月には半蔵門・有楽町間が開通している(『東京百年史』第三巻)。
ところで、品川・新橋間の電車開通当時は、八ッ山を起点とし、運転車両六〇台、一両の定員は四〇人で、乗車後は、品川馬車鉄道のころと同じく、品川・新橋間(八ッ山・泉岳寺・札之辻・金杉橋・新橋)を四区に分ち、一区二銭、二区以上は区ごとに一銭を増加していったといわれている(『品川町史』下巻三五六ページ)。
日清戦時の電気鉄道敷設という企業熱は、日清戦後の勃興気運に乗って、さらに、京浜間に拡げられていった。たとえば、雨宮敬次郎・中野武営・若尾畿造ら当時の代表的な実業家たちが入り乱れて、横浜から川崎へ、さらに大師河原へと電気鉄道敷設を出願しているのであって、当時の醇朴な市外農村の風致が害されるとか、あるいはまた人力車夫たちが失業を恐れて反対運動をおこしたにもかかわらず、明治三十年八月には、雨宮・若尾・中野らは合同して、さきの藤岡市助とも関係の深かった立川勇次郎を代表発起人とした大師電気鉄道株式会社の鉄道敷設が許可されている。東日本では最初の地方電気鉄道であり、東京電車鉄道の敷設許可より早い。このようにして、明治三十一年三月十七日に現在の京浜急行(明治三十二年四月二十四日には、京浜電気鉄道株式会社が創設されている)の出発点ともいうべき、大師電気鉄道株式会社が創立された(『横浜市史』第四巻上、『川崎市史』)。この間の動きを示したのが、次表であるが、京浜電気鉄道に改称されたと同じ明治三十二年の十一月には、当区域内に関係して川崎・目黒川間が、こえて明治三十五年十一月二十九日には目黒川・八ッ山橋間の敷設が認可され、日露戦争の始まった明治三十七年の五月八日に開通している。なお、品川駅前まで延長したのは、大正十四年三月十一日のことである(『品川町史』下巻三五六ページ)。なお京浜電鉄の前身たる創業期の川崎電気鉄道株式会社は、明治三十二年、四谷区信濃町を起点とする青山―目黒―池上―川崎と、池上・大森に至る路線の許可をとり、東京電気鉄道株式会社と改称している(『川崎市史』)。
年次 | 大師鉄道・京浜電気鉄道 (現在の京浜急行) |
東京横浜電気鉄道 (現在の東京急行) |
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月 日 | ||||
明治29年 | 3.18 | 川崎電気鉄道(川崎~大師河原請願) | ||
30 | 6.29 | 横浜電気鉄道と合同契約 | ||
〃 | 8.26 | 六郷~大師間許可 | ||
31 | 3.17 | 大師電気鉄道創立 | ||
32 | 4.25 | 京浜電気鉄道と改称 | ||
33 | 11.2 | 川崎・神奈川間電気鉄道敷設特許 | ||
35 | 6.28 | 羽田支線開通 | ||
36 | 4.16 | 玉川砂利鉄道創立 | ||
38 | 12.24 | 東京・横浜間全通 | ||
41 | 5.8 | 武蔵電気鉄道仮免許 | ||
43 | 6.22 | 武蔵電気鉄道創立 |
このように、いわゆる市街鉄道が品川を起点とし発展をとげていったこと、さらに、東京・横浜間の中間地帯ともいうべき当区域は、後述するように目黒川沿岸に集中する諸種の近代産業の形成・展開とも関連して、交通機関の発達にも大きな役割を果してゆく。ともあれ、共通運賃制実施の要望や、東京「市民の足」の必要性から、いままでのべてきた電気鉄道を私営会社に任せておくことの是非が議論されてくることとなる。明治三十二年六月に開かれた東京市参事会でも、激論の末、僅少差でひとまず「民有説」が勝利を占めたが、日露戦後の明治三十九年三月上旬以降、当時の日本社会党をはじめ、木下尚江・山路愛山らによる電車賃値上げ反対を理由とした日比谷騒擾事件が契機ともなって、その年の九月十一日に、東京鉄道株式会社が、前述の東京電車鉄道・東京市街鉄道・東京電気鉄道の三社合併の形で設立された。そして、これを機会に「市有説」が再び抬頭し、尾崎行雄市長の辞職・再選という複雑な経過を辿ったが、明治四十四年八月一日に東京鉄道株式会社の買収が完了した。買収当初の軌道延長は約一九〇キロメートル、一日の乗客数は五八万人程度、買収価格は六、四五〇万円であった。以上が、いわゆる東京「市電」の起源である(『東京百年史』第三巻)。
しかも、もう過去の名残りになってしまった市電系統①品川駅・新橋・銀座・神田須田町・上野駅の歴史的由来もこのあたりにあるといえよう。
このように、いわゆる「市電」が運転されて東京市内の交通網が展開してゆくのに対応して、大都市における鉄道電化も始まる。いわゆる「省線電車」がそれであるが、すでに日露戦時の明治三十七年八月二十一日には、当時は甲武鉄道の市街線であった飯田町・中野間に、十二月三十一日には飯田町・御茶ノ水間に電車運転が開始されている。蒸気機関車運転に伴う音響・煤煙の公害もなくなり、また一列車の索引車両を減じ、逆に列車本数を増加するためにも、電力の方がはるかに経済的だったのである。鉄道国有化により、明治三十九年十月、この甲武鉄道の電車二八両は鉄道作業局に編入され、現在の国鉄電車発展の基礎となった。これよりおくれて、明治四十二年十二月十六日、新設の烏森(現在の新橋)・品川・上野間の山手線経由と池袋・赤羽間に電車運転が開始され、浜松町・品川間が同時に四線開通となった(『日本国有鉄道百年史』第4巻および年表)。
また前述したように、京浜電気鉄道の開通に伴い、官線との競争がひきおこされてゆく。そのため「従来新橋横浜間に於ける列車を普通五十五分、直行三十五分にて運転しましたが、京浜電気鉄道開通の上は、品川・神奈川間二十九分三十秒に対し、新橋・横浜間の汽車を二十七分に短縮せしむる計画を立て……速度試験のためボギー車六両を以て臨時列車を運転した」といわれた。この結果は、同年の暮も押迫った十二月二十七日から、新橋・横浜間に「最急行列車」二往復を新設した。平均時速四〇マイル(約六四キロメートル)、時間は二十七分であったという。明治四十年十一月当時、逓信省帝国鉄道庁(現在の日本国有鉄道)側は、「労働列車」運転や、「特定割引乗車券」の発売という巻返し戦術に出、さらに大正三年十二月二十日には、新橋・横浜間の直通電車の運転を開始し、その三十日には桜木町駅(旧横浜駅)まで延長してゆくのである(『横浜市史』第四巻上)。
なお最後に、日清戦争直前の明治二十六年当時の慶応義塾学生であった森村明介・開作兄弟が八ッ山下(の自宅か)から、自転車で関西旅行に出かけたといわれている。「ハイカラ趣味」であろうが、よかりし明治中期の風俗を伝えておもしろい(『東京百年史』第三巻)。