後藤毛織の創始

238 ~ 241

まず、軽工業の中心ともいうべき、紡織工業からみてみよう。本邦における民間毛織物工業の先導者として、かつ大井町の開発者ともいわれる人に、後藤恕作がある。しかし、かれの努力による民間羊毛工業の形成も、明治十一年六月に開業した官営千住製絨所の指導・育成にまつところがきわめて大きかった。明治初年には、「赤ゲット」は貴重な舶来品であったが、当時の邏卒(今の巡査)の制服や、学生のサージ(「セル」は訛ったことば)にしても、毛織物製品だったのである。すでに明治初年、外国商館に勤めた後藤は、明治八年十五歳の折、政治家であり、思想家でもあった森有礼の下(もと)に移り、森が清国公使として渡航するに際し、同行して中国に留学した。このとき、かれは中国語研究のかたわら、中国における毛織物業の視察を試み、とくにその染液の化合の技術の習得に努力を傾けたといわれている(『大井町誌』)。明治十一年に帰朝して、創業したばかりの官営千住製絨所を視察して、民間毛織物工業を創始するための計画をねったという。明治十三年春、五〇〇円を借入れ、中国滞在中に相識った谷ケ崎清吉氏と共同事業で、乾柔舎を駒込(現文京区)に設立、羊皮の柔革と毛糸紡績を始めたが、機運熟せず数ヵ月ののち中止のやむなきに至った。ついで一、〇〇〇円の資金で四ッ谷(現新宿区)左門町に縮布工場を設けたが、これも失敗、しかも、窮乏にもめげず米搗器械の発明や、洋鶏の孵化などに努めつつ将来の資金の蓄積を考えざるをえなかった。さらに浅草(現台東区)で羊毛を肥料に供するときけば、之を買収し、また当時農商務省勧農局の所管であった下総牧羊場(千葉県埴生郡)に羊毛五、〇〇〇斤があるときけば、一ヵ年間無利息払下げを請願したりしたが、事業内容は必ずしも好転しなかった。かつて、共に中国北京に駐在した加藤秀一書記官が帰朝するや、洋銀一、〇〇〇枚を支出して、後藤恕作の事業に参加したので、後藤は芝白金台町(現港区)に羊毛製糸社を新設して、段通織の製造を開始したのである。この羊毛製糸社とて、職工は二〇名程度、手紡績粗製の毛糸を製造する程度であった。翌十四年に後藤毛織製造所をおこしている。これまでにもたびたびふれた明治十四年三月に開催された第二回内国勧業博覧会には製造された段通などを出品して、二等賞を獲得したものの販路なく、もっぱら海軍向け水兵用メリヤスの襟巻や靴下を製造して、事業の命脈を保ったといわれている。さらに、いわゆる「紙幣整理期」に移るや、洋銀相場の変動で苦しめられ続けた。明治十九年九月、芝高輪(現港区)万盛楼石井氏の息女と結婚したが、義兄石井鎌太郎よりの援助出資二万円を基にして、翌二十年十二月に東京毛布製造会社を創立した。紡績機械一台(錘数三六〇)と織機(八馬力)を設備したが振わず、この間明治二十二年六月には、中国に向け出発、朝鮮・芝罘(チーフ)・天津などを視察帰国している。だがここでも海軍向け白毛布を製造したものの利益上がらず、同年末には負債さえ生じる始末であった。不況の年であった明治二十三年以降やっと回復に転じ、ここに明治二十五年夏、当時の大井村五八〇番地に工場を移転したのである。かくて工場数棟、職工数も、連年増加を示している。その間の営業概況を示せば、第56表のとおりである。なお、『東京府統計書』の示すところでは、後藤毛織物製造所と東京毛布製造株式会社とが併存しており、とくに後者の東京毛布は、日清戦争が勃発するや後藤恕作の経営手腕もあって、軍需と結びつき、明治二十七年に一万円、同二十八年暮には三〇万円、さらに明治二十九年末には五〇万円の巨利を博したという。この間、日清戦争開始直前、資本金二〇万円で日本毛布製造株式会社を創立したが、東京毛布に買収されたようである。ともあれ、後藤毛織・東京毛布ともに、明治三十年の不況期の影響の下で、日清戦争を経過し、羊毛工業関係の関税改正(輸出税・羊毛関税ともに全廃、輸入品のうち、毛糸は一〇% 毛織物一五%)が施行されるなかで、はじめて発展を示したといってよい。たとえば、毛織物商人が連合して信友会を組織して、後藤毛織や東京毛布関係の製品を買取るという特約締結が始められたり、あるいは毎回銀行からの融資が実現したことは、その傍証とも考えられよう(『楫西光速編『繊維』上、『大井町誌』)。


第37図 後藤恕作

第55表 東京毛布の経営概況
年次 男工 女工 馬力数 生産額
馬力
明治21年 15 9 24 18,265
25  32 43 75 80 77,400
29  90 75 165 80 127,676
30  85 121 206 33,126
31  79 79 158 160 158,530

 

第56表 後藤毛織の営業概況
年次 男工 女工 馬力数 生産額
馬力
明治25年 85 150 235 90 123,695
29  149 293 442 115 222,181
30  148 372 520 184 339,057
31  159 499 658 85 694,287

(注) ともに,『東京府統計書』より作成。

 日清戦争後、民間羊毛工業全般の発展に対応して、後藤恕作は輸出向け製品の調査研究と販路視察をもかねて、重ねて欧米の旅に上るのであるが、後藤毛織などの工場用敷地も二万坪をこえ、明治三十二年には職工数も一、〇〇〇名をこえたといわれている。ただ明治三十三年から翌年にかけての本格的な過剰生産恐慌に際会して、後藤毛織物製造所も羊毛原料の価格暴落から、三井銀行に六〇余万円の債務を生じ、一時休業に追いこまれ、のち三井の所有に帰して、明治三十六年頃には、資本金六〇万の品川毛織会社と改称、再出発してゆくのである。この品川毛織は明治四十二年には、東京製絨会社に買収されてゆくが、一方、後藤恕作は、中島銀行頭取島田〓蔵の援助をうけて島田毛織製造所を設立、同じく明治四十年四月には後藤毛織株式会社と改称してゆく。だが、かならずしもその実態は明かでなく、大正四年十月には、東洋毛織と改称、大正六年三月に東京毛織(東京製絨の改称)株式会社に合併されている(『羊毛工業資料』)。明治四十三年の毛糸紡績の設備数は第57表のとおりであるが、東京製絨株式会社品川工場と後藤毛織のそれが品川区に関連があったと考えられる(前掲『繊維』上)。のち、東京毛織株式会社は、昭和二年三月、合同毛織株式会社に合併され、戦時体制下の昭和十六年七月に、鐘渕工業(後の鐘渕紡績、現在のカネボウ)株式会社に集大成されてゆくのである。

第57表 各社別紡錘数(明治43年)
会社名 日本毛織 東京製絨 後藤毛織 東京毛織物
項目 王子 品川
設備錘数 3,900 8,587 3,160 3,600 2,000 21,247
(%) 18.3 40.4 14.8 16.9 9.4 100

(注)『日本羊毛工業史』による,合計額補正。