緒明造船所の創始

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ここで、機械工業の形成・展開と密接に関連し、綜合工業ともいうべき特徴をもつ造船業の動向にもふれておかなくてはならない。それは、伊豆下田(現静岡県下田市)出身の緒明菊三郎が安政元年(一八五四)九歳の折、船大工であった父に伴われ戸田(へだ)港に赴き、ロシア軍艦ディヤナ号の艦長プーチャチンの西洋型船舶建造の計画に加わったことに始まる。こえて明治十二年上京して、京橋区(現中央区)湊町に洋式造船所を創設、又副業として、隅田川にかかる永代橋・両国橋間に小蒸気船を運航し、のちの「一銭蒸汽」の端緒を開いたともいわれている。不運にして、この造船所は火災にあったため、明治十六年、当時陸軍省の所管であった品川沖第四砲台跡を利用して、造船工場を設けた。これが緒明造船所であり、盛況を極めたという。かれの邸宅は北品川にあったが、入口の門を灯台の形にあやかり、この門を通して、第四台場にある緒明造船所が望見できたという。緒明横町はその名残りである。その経営概況を示せば第59表の通りである。本邦造船工業は、明治二十年代初頭から、急速に展開をみせていくのであるが、この時期は、日本造船工業の歴史の上でも、一大画期の年といわれている。それは、従来の大型日本型船舶の建造禁止令が出され、一方で明治政府が西洋型船舶の普及にのり出すとともに、他方では長崎・兵庫・横浜などの大造船所の払下げが実現してゆくのと重なっていたのである(『現代日本産業講座Ⅴ機械工業1』、金子栄一編『造船』〔『現代日本産業発達史Ⅸ』〕)。なお品川区域内では、島田造船所が明治二十四、二十五の両年、端艇を一隻づつ製造している統計が残存するが(『東京府統計書』)、その実態は明らかでない。

第59表 緒明造船所の経営概況
項目 職工数 馬力 製造船舶数 売上高
年度 日本型船舶 汽船
馬力
明治17年 43 77,685
20  75 29,349
22  180 4,000
23  1 2 45,428
24  136 5 42,650
25  136 8 6 76,150
26  1 300
30  115

(注)『造船』および『東京府統計書』より作成。 ―は不明。

 さて、緒明は、著名な榎本武揚らとともに、日清戦後の明治三十年六月に、浦賀船渠(ドック)株式会社(現在の浦賀重工業株式会社の前身)の設立に参画するのであって、平野富二の率いる石川島造船所(現在の石川島播磨重工業株式会社の前身)と競争を重ねてゆくが、個人経営から出発して、造船工業の近代化に努力した一典型といわれている(前掲、『造船』)。日清戦争前後からは、自分の造船所で建造した観音丸により、海運業にも進出していったといわれている。