品川硝子会社の興廃

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ついで窯業の実態をみるために、まずその後の品川硝子の動向からさぐることとしよう。

すでに、西村勝三は明治二十年に品川硝子製造所工長中島宣を実地研究のため、ドイツに派遣したことはふれた通りである。そして同地から、技術をはじめ、熟練工を管理者として雇入れ、純然たる私有としての有限会社組織に改め、輸入品を杜絶して、国内の需要に応ずるのはもちろん、石炭輸出と並んで東洋諸国にも輸出販売を企図していたのである(資・四三三号)。そして、明治二十一年四月廿五日には、山口県士族柏村信、稲葉家の家令高浜忠恕らとの共同発起で、資本金一五万円の有限責任品川硝子会社創立願を、東京府知事高崎五六あて提出した。その原始定款の草案によれば、火含・薬壜・酒壜・食器類を製造販売し、支社を長崎または摂津(現大阪府)のあたりに設置しようとしている(資・四三五号)。品川硝子会社が成立すると、ただちに旧品川硝子製造所の地所・家屋・器械・窯・原料まで一切を五万七五〇〇円で買収した。買収当時の品川硝子製造所には、第一から第四に至る工場があって、第一から第三までの諸工場は瓦斯窯を用い、大小に応じて酒壜・薬壜および火含を製造した。第四工場は、工部省時代からの慣行で、たとえば燈台局の燈台火含、軍艦備付の食器・薬壜・陸軍薬剤用瓶ならびに兵士水呑瓶・鉄道局燈用類、日本郵船会社や東京ガス局などからの注文に応じ、その他に一般からの注文にも応ずることとしたという。この原始定款草案とともに、各工場別の経費ならびに売上予算書、明治廿二年七月から廿七年に至るまで四期間の起業予算も作成されている(資・四三三、四三六号)。このように、工場別の分業法によりつつ、麦酒壜は、横浜の麒麟麦酒会社に大部分を売却し、薬壜は日本製薬会社に、また押型硝子製品は水呑・皿などをつくって一般に販売したといわれている(『明治工業史』化学工業編)。ところで、翌明治二十二年には事業拡張を考えて四五万円を増資して資本金を六〇万円とし、支社を山口県厚狭(あづさ)郡東須恵字小野田(現在の小野田市須恵字古開作(ふるがいさく)若山及野来見(のぐるみ))に選定した。そこには、現在では何も残っていないけれども「須恵」という地名にも表現されているように、「東方ハ小丘ニシテ硝子ノ原料タルベキ硅砂ヲ含蓄シ、西方ハ海ニ接シテ運輸ノ便アリ、地下ハ総シテ石炭ヲ包蔵」(資・四三九、「品川硝子会社第三回考課状」)していたのである。ただ、小野田セメントは関係がないようである。この間の経営概況を示せば、上の二つの表の通りである。予想外に収支状況は悪い。主要株主には、明治初年三池鉱山局長であった小林秀知・三井銀行理事の西邑虎四郎、藤田組の藤田伝三郎、三井物産の益田孝・木村正幹、日本ビールの馬越恭平、小野田セメントの創設者ともいえる笠井順八、山口県の豪農吉富簡一、さらに九州筑豊地方の鉱業資本家ともいうべき許斐鷹助など、当時の日本資本主義形成過程における担い手たちが名前を連ねているにもかかわらず、明治二十三年以降は製品売上高も激減し、純益金も赤字の連続なのである。職工数にしても、最高一五〇名で、その半数に減少してゆく。小野田の支社が明治二十五年に竣功したものの、金融逼迫から旧長州藩主毛利家より六万円の借入れで危機を乗切ったといわれている。創業当初は福島県小名浜の磐城硝子会社との市場の競争があったとはいえ、ビール壜製造の窯の破損や、加えて原料騰貴と供給過剰が次第につくり出されつつあったものと考えられよう。「第五回半季考課状」でも「損失ノ原因及将来ノ目的」として、明治二十三年の不景気の襲来、原料炭の騰貴、借入金利の増大、ビール壜の製造中止を試みたが、該職工に食費を支給したこと、などをあげ、良質粘土の輸入、善良窯の築造、善良な坩堝の造成を必要条件として指摘しているのである(資四四一号)。かくて、支社の小野田工場が充分に操業をみないまえに、品川硝子会社は明治二十五年十一月に解散している(『明治工業史』化学工業編、なお『西村勝三翁伝』では明治二十六年六月の解散としてある)。


第39図 品川硝子製造所跡(『明治再見』より)

第60表 品川硝子会社の経営概況(円以下切捨)
年度 明治22年 明治23年 明治24年
項目 上期 下期 上期 下期 上期 下期
益金 7,366 8,652 2,612 2,325 1,644
(100) (117.6) (35.5) (31.5) (22.3)
当期純益金 2,511 3,500 △9,530 △2,574 △3,755
(100) (139.4) △   △   △  
前期繰越金 84 10
後期繰越金 84 10
配当金 2.1 2.4 ナシ ナシ ナシ

(注)『品川区史資料編』より作成。

第61表 明治20年代の品川硝子
年度 男工 女工 職工数 馬力数 製品売上高
項目
馬力
明治20年 70 5 75 11,605
21  120 0 120 8,900
22  157 0 157 35,875
23  107 0 107 22,328
24  46 0 46 4 17,172
25  74 0 74 4 13,945
26  70 3 73 3,888

(注)各年度『東京府統計書』より作成
製品売上高は,生産額などによる

 なお、この品川硝子会社の母胎たる品川硝子製造所が、官営から民営に移ったとき、そこで養成された伝習職工たちは、東京市内あるいは大阪へと移ったが、かれらは既設の工場へ入るか独立してガラス工場を開いていったことは想像にかたくない。しかも、はなはだ興味あることに、品川区域内の近代工業の形成過程に際して、いくつかの産業部門で技術的継承・伝播がはっきり現われてくるのである。品川硝子と日本光学の場合もその好例と考えられる。具体的にその仲立ちをしたのは、品川硝子の官営時代に職長を勤めた岩城滝次郎なのであるが、かれはまた、今世紀初頭(明治三十三年)に、宿願の板硝子製造をこの品川硝子の工場で試みた、といわれている(『日本光学工業株式会社二十五年史』)。そして、周知のように、明治四十一年、当時の三共合資会社(現在の三共株式会社の前身)が、この工場を買収し、製薬工場として出発させてゆくのである。