日本光学成立の前史

249 ~ 250

いま、品川硝子と日本光学との間に技術的継承・伝播があると記したが、そもそも日本光学工業株式会社は大正六年三月、三菱の岩崎小弥太の経済的援助で設立されたのである。ただ、戦後のわれわれは、とくに光学工業といえば、ただちに「カメラ」を連想するのであるが、戦前の段階では、「カメラ」どころか次のように、大きく軍需に依存していたことを見落してはなるまい。つまり、海軍造兵廠における軍艦搭載用測距儀・照準鏡・双眼鏡・望遠鏡などの製作、陸軍の東京造兵廠精器製造処における海岸砲用測遠器・双眼鏡・パノラマ眼鏡などの製作、といったいわゆる「軍需」を前提にして、藤井レンズ・岩城硝子および東京計器の各製造所が統合されて、日本光学株式会社が設立されたのである。

 岩城硝子製造所はすでに明治十四年、岩城滝次郎によって京橋区新栄町(現中央区入船町)に創設され、明治十八年には海軍御用品として「サーチライト用反射鏡」を製作している。これが機縁で、岩城硝子は海軍鎮守府の御用工場となり、明治三十三年には呉(広島県)海軍工廠よりの注文で探照燈用反射鏡二枚を製造、納品、大正三年には、海軍造兵廠よりの注文で探照燈七五センチ反射鏡の試作研究に着手したのである(『日本光学工業株式会社二十五年史』)。

 つぎに、東京計器製作所は、明治二十九年五月、和田嘉衡によって、小石川区(現文京区)原町百二十番地に創設された。これは、日清戦争時における軍用計器の重要性と本邦光学工業の未展開とを認識した上で、和田自身が、経営者兼技術者として、同志数人とともに、まず計器製作の初歩として、圧力計の研究と試作を始めたことに由来するという。明治三十五年には合名会社に改組したが、資本金は僅かに二万円であった。だが、努力のかいあって、日露戦争の折、それもロシアのバルチック艦隊撃滅で著名な旗艦三笠の東郷司会長官の脇にあるイギリス「ブッシュ社」式距離測定儀の中央プリズム部分は、東京計器の製作であったという。そして陸海両軍の望遠鏡や各種の双眼鏡もつくられるようになってゆくのである。第一次大戦間近になるや、兵器輸入が困難になるとの予想の下、海軍造兵廠より注文があり、輸入測距儀に代わる特殊測距儀の国産化が起案計画されて、金物は東京計器、硝子部品は藤井レンズの合作製造で、二台を完成していたのである(『日本光学工業株式会社二十五年史』)。

 最後に、藤井レンズ製造所であるが、海軍技師であった藤井竜蔵は明治四十一年に退職して麻布区(現港区)竜土町で、光学レンズの試作を始めたといわれている。翌年芝区(現港区)豊岡町二番地に工場を新築、弟の藤井光蔵とともに、同年十月一日から営業を開始し、光学器械の製作に従事した。少数の旋盤とカール=ツァイス製の光学測定機、オスカー=アルベルトとリンデマン製の研磨機を備えつけたという。主に陸軍用兵器、航海用・教育用望遠鏡、顕微鏡、写真レンズ、活動写真器機を製作してゆくのであるが、創立当初は、もっぱら兵器の修理と研究に努め、明治末期から本格的に軍需の注文をひきうけたという。藤井兄弟は優秀な技術と錬磨せる経験に加へて、該博な外国知識を蓄えていたので、まさに、日本国内の信用を博したのみならず、第一次大戦勃発後には、遠くロシア・イギリス・アメリカからも多くの注文があり、プリズム双眼鏡や高射砲照準望遠鏡を製作、納品したといわれている(藤井光蔵『光学回顧録』)。

 そして、以上の先覚者たちの営々とした努力に加えて、第一次大戦による光学材料の輸入杜絶が重なり、ここに本邦光学工業の自立が要請されることとなったのである。かくて、東京計器の和田嘉衡は、三菱の岩崎小弥太・近藤滋弥に、光学工業の整理統合と、光学工業大会社設立を慫慂したのであって、ここに海軍の斡旋も重なり、資本金二〇〇万円の日本光学工業株式会社が誕生してゆくのである。