すでに、明治十九年に渡欧した西村勝三も、また翌二十年十月品川硝子工長中島宣がドイツに派遣された折も、製靴・硝子工業と並んで耐火煉瓦製造業の視察も怠りなかった。中島の場合には、日本から一種の粘土を持参して、ドイツで、その適否の検定をうけた程であった。そのような準備を重ねていた折に、前述のように、品川硝子製造所の払下げをうけたので、ひとまずその所属であった品川の硝子試験所の土地および建物を耐火煉瓦の製造工場となすべく、それまで深川(現江東区)清住(澄)町にあった伊勢勝白煉瓦製造所をそこに移し、品川白煉瓦製造所と改称したのである(『西村勝三翁』、『明治工業史化学工業編』)。
ところで、この耐火煉瓦工業もまた、日本資本主義の確立に対応して明治二、三十年代に隆盛期に入ったものといえよう。周知の官営八幡製鉄所の創設もあり、いわゆる炉材としての耐火煉瓦、すなわち「白煉瓦」(酸性耐火煉瓦としての珪石煉瓦)が必要可欠になってゆくのである。
それゆえ、西村勝三らは品川白煉瓦製造所と改称し、規模を拡張するや、原料の発見や確保に全力をあげた。明治二十四年には三河国賀茂郡猿投山(現愛知県豊田市猿投町)の良好なる硅石を発見、これを原料として本邦最初の硅石煉瓦を製造した。これを本所区(現江東区)柳原町にあった古河熔銅所、あるいは住友の新居浜熔鉱所などに供給して、賞讃を博したといわれている。とくに「独国製ニ優リ且其価ノ廉ナル」と絶讃されているのである。また明治二十三年四月の第三回内国勧業博覧会には有功三等賞を、さらに、明治二十八年の第四回内国勧業博覧会でも進歩二等賞をうけている(品川白煉瓦株式会社編纂室所蔵『設立趣意書・起業目論見書』)。
ともあれ、このような動向のなかで明治二十年代以降の概況を示せば、次の通りである。明治二十年代と日清戦争前後に発展の画期を求めることができよう。つまり、明治二十三年の不況に耐えず、一時名義を稲葉家の家令高浜忠恕に移したのも、その証左と考えられよう。こえて明治二十六年には磐城国石城郡赤井村(福島県いわき市)に層脈二里をこえる広大な粘土産地を発見、買収した。これは品川白煉瓦の発展の基礎ともいうべく、現在でも新湯本工場管轄下の赤井鉱山として存続している。そして、同じ明治二十六年には、すでに明治二十年に解散し、かつては品川硝子の競争相手でもあった磐城硝子の工場敷地その他一切を買収して、品川白煉瓦の工場とし、明治二十八年暮から操業を始めている。そして、このような展開をふまえて、明治三十三年七月には、従来の品川白煉瓦製造所を合資会社組織に変更し、第一銀行の渋沢栄一、三井物産の益田孝・団琢磨、日本ビールの馬越恭平をはじめ、品川町から漆昌巌も加わり、出資人一七名による資本金八万円の品川白煉瓦合資会社に改称した。この折、西村勝三自身、再び社長となったが、当時積立金二万五五六〇円、借入金七万余円、利益配当は一割二分という経営状況を示すに至っている。同社の製品中、ここに明治二十七年に発明された「シリカ」耐火煉瓦は専売特許品にして、各種の製鉄炉・製鋼炉・粗銅精煉・ガス発生炉・コークス炉などに必要不可欠の材料となっていたのである(前掲、品川白煉瓦社史編纂室所蔵『品川白煉瓦合資会社事歴』)。さらに、明治三十六年六月には、再び株式会社に組織変更して資本金も二五万円に増資した。これと前後して、伊賀国阿山郡島ケ原(三重県阿山郡島ケ原村)に純良耐火粘土を発見買収したので、明治三十八年には大阪市南区木津に工場を設置、その十月には五〇万円に、翌三十九年にはその倍額の一〇〇万円に増資してゆくのである。そして、耐火煉瓦の販売先としては、官営八幡製鉄所を始めとして、横須賀・呉各造船廠、東京・大阪各砲兵工廠、古河鉱山・住友鉱山・釜石鉱山・東京ガス株式会社などがあり、それらとの間に指名特約を結んでゆくのである(『西村勝三翁伝』)。
この間、日露戦争前後から明治末期に至る経営概況を示せば、上の表の通りであって、着実な発展と、日露戦時の急激な蓄積のあとを窺うことができよう。なお、明治四十二年下期からは、築造部を新設して、各種窯炉ならびに装飾煉瓦使用のための建築物の設計と築造請負を開始している。実際には、静岡・仙台・岡山など各地方都市の発展や人口増加に対応したガス会社の新設によるものであった(前掲、各年度『営業報告書』)。
明治四十年一月、前年夏発病した盲腸炎が原因で西村勝三は逝去するが、享年七十二。品川東海寺に葬られた。しかも、西村勝三の遺志をついで、この頃から、耐火煉瓦は中国・朝鮮をはじめとして、広く東南アジア市場へ進出してゆくのである(『西村勝三翁伝』)。
項目 | 男工 | 女工 | 職工数 | 馬力数 | 製品売上高 |
---|---|---|---|---|---|
年度 | |||||
名 | 名 | 名 | 馬力 | 円 | |
明治17年 | (9,895) | (936) | (10,831) | 14,107 | |
21 | 25 | 0 | 25 | 15,900 | |
22 | 25 | 3 | 28 | 10 | 13,824 |
23 | 25 | 0 | 25 | 10 | 3,905 |
24 | 45 | 0 | 45 | 10 | 7,194 |
25 | 61 | 0 | 61 | 10 | 26,604 |
26 | 65 | 4 | 69 | 10 | 55,678 |
29 | 60 | 3 | 63 | 18 | 82,420 |
30 | 55 | 4 | 59 | 7.5 | 112,200 |
31 | 59 | 4 | 63 | 8 | 133,500 |
(注) 各年度『東京府統計書』より作成。
製品売上高は,収入,生産額などによる。
( )内は,延人数を示す。
年度 | 明治36年 | 明治39年 | 明治42年 | 明治45年(大正元年) | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
項目 | 上期 | 下期 | 上期 | 下期 | 上期 | 下期 | 上期 | 下期 |
円 | 円 | 円 | 円 | 円 | 円 | 円 | 円 | |
製品売上高 | 41,218 | 85,944 | 210,579 | 251,265 | 193,403 | 213,973 | 437,660 | 454,000 |
(100) | (208.6) | (511.1) | (609.9) | (469.4) | (519.4) | (1,062.3) | (1,101.9) | |
当期純益 | 3,550 | 14,988 | 75,642 | 54,482 | 21,159 | 21,499 | 66,204 | 62,447 |
(100) | (422.2) | (2,130.8) | (1,534.7) | (596.0) | (605.6) | (1,864.9) | (1,759.1) | |
前期繰越金 | ― | 737 | 9,592 | 9,360 | 737 | 747 | 6,835 | 7,189 |
(100) | (1,301.5) | (1,270) | (100) | (101.4) | (927.4) | (975,4) | ||
後期繰越金 | ― | 1,785 | 9,360 | 5,134 | 747 | 497 | 7,189 | 4,087 |
(100) | (525.8) | (288.4) | (42) | (27.9) | (403.9) | (229.6) | ||
株主配当金 | 737 | 6,250 | 11,875 | 34,166 | 31,250 | 31,250 | 41,250 | 46,250 |
% | ||||||||
年利 | 0.1 | 0.12 | 0.06 | 0.12 | 0.1 | 0.1 | 0.1 | 0.1 |
(注) 各期『営業報告書』より作成。
ただし,明治36,39年度の「製品売上高」は「総益金」によった。