三共合資会社品川工場の創設

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ついで、化学工業としての製薬業の検討に移ることにしよう。塩原又策が、横浜市弁天通りにあった横浜刺繍株式会社の支配人として、羽二重の売込みに従事しながらも、羽二重価格の暴落から、新しい事業に転向すべく、高峰譲吉が発見した「タカヂアスターゼ」を輸入発売したのは、明治三十二年のことであった。これが、現在の三共株式会社の発端といわれている。上表が示すように、次第に「タカヂアスターゼ」の売上げと利益が漸増したので、塩原は従来の羽二重売込みという本業をすてて、薬業に専念することとした。このため明治三十五年の初めには、東京市日本橋南茅場町(現中央区茅場町)の今村銀行の持家に三共商店薬品部を開設したのである。この当時の製薬業といえば、製薬国産化は思いもよらず、売薬や家伝薬のほか、樟脳・除虫菊などを自給しえたにすぎず、アルコール・石炭酸・サルチル酸・アルカロイドなども国内に原料があったにもかかわらず、輸入に大きく依存していたのである。この点は、後にのべるように、星製薬の創業時に、日本薬局方に合わせた「イイチオール」をつくるために、星一が全力を傾け、当時の製薬業に進出してゆくのに類似していたと考えられよう。

第64表 三共商店の損益(明治32年下期)
収入 費目 金額 支出 費目 金額
売上金 2,218 前期売残品 1,015
在品原価 1,434 高峰送金 1,077
小計 3,652 売上割引 111
諸費 88
外国電報料 30
瓶詰費 120
報酬手当 150
差引利益 1,061 小計 2,591

(注) 『三共六十年史』による,円以下四捨五入。

第65表 三共の利益金の動向

(円以下四捨五入)

期別 資本金 利益金
明治32年 859 1,000
1,500 1,061
33  1,950 1,496
3,000 1,616
34  3,000 2,111
3,000 3,918
35  3,000 5,831

(注) 『三共六十年史』による。

 ともあれ、塩原が「タカヂアスターゼ」宣伝のため、一般向けに時事新報に広告をのせたり、また三色刷石版印刷の絵ハガキなどを利用したのも画期的なことであった。さらに、実務報告や医学雑誌を利用して、医者に対しても直接需要を換起する方法を採用したことも特筆されてよい。このように、新しい製薬事業の進展に伴い塩原は、明治三十八年には日本橋(現中央区)箱崎町の土州屋敷跡に二〇〇坪の製薬工場をも新設してゆく。明治四十年には、三共商店を塩原又策・千代夫妻の出資による資本金五〇万円の三共薬品合資会社に改組、こえて明治四十二年八月には、医療器械部設置により、社名から「薬品」の文字を削って、三共合資会社とした。そして翌明治四十一年一月、前述した品川硝子会社の跡で売工場となっていたものを買収し、品川工場としたのである。しかも興味あることは、この品川硝子が官営時代、その主管たる工部省工作局長大鳥圭介は、たまたま塩原又策の妻千代の祖父に当たり、またこの品川工場の煉瓦造り煙突も、大鳥圭介が同時に校長を兼ねていた工部大学校に在学中の高峰譲吉らがアルバイトとして、築造したという由来があったのである。

 この品川工場は初めのうちは広大な建物でガランとしていたが、東京帝国大学薬学科教授下山順一郎教授の援助もあり、結核薬「ファゴール」、皮膚薬「チオール」の製造を始め、明治四十四年には、周知の鈴木梅太郎の発見による脚気特効薬たる「オリザニン」の製造販売といったように、漸次三共の主力工場となっていったのである。品川工場をも含む三共創業期の経営動向は前表の通りである。

第66表 明治末の三共の利益金
期別 資本金 利益金
明治40年 187,500 14,555
41  250,000 41,727
312,500 51,650
42  375,000 42,552
500,000 34,790
43  500,000 35,643
500,000 38,580
44  1,000,000 96,583
1,000,000 50,914

(注)『三共六十年史』による。