明治二十七年春、苦学力行のすえ東京商業学校(現在の一ツ橋大学の前身)を卒業した星一は、さらに当時の風潮もあって、先進国アメリカに渡り、アメリカの大学を卒業したいと念願していた。同年秋、まずサンフランシスコに渡り、「スクールボーイ」という苦学生の状態に甘んじながら、アメリカにおける語学や生活慣習のギャップにもめげず勉学をつづけた。やっとコロンビア大学に入学を許された星は、主たる専攻科目を統計学とし、社会学・歴史学・経済学・政治学をも学んだという。おそらく当時としては、可成り進んだ思想形成・学問形成が、試みられたと考えられよう。しかも当時の、いわば今世紀初頭の独占形成期にあたるアメリカ社会における自由濶達な気風は、帰国後の星の行動様式に一つの基準を与えたことも想像にかたくない。滞米七年苦学力行の末、明治三十四年に二十八歳でコロンビア大学の学位と取得した。この間、コロンビア大学在学中から、週刊邦字新聞「日米週報」を発行し、卒業後は英文月刊紙「ジャパン=アンド=アメリカ」を発刊し、日米親善の為につくしたのである。日露戦後の明治三十九年に帰国、種々思案の末小資本で可能な、かつ資金の回転の早い製薬業に着手することとしたのである。おそらく、アメリカ留学中における売薬の恩恵もあずかって力があったかもしれない。
かくて、「イイチオール」を手始めに、日本薬局方にあう家庭薬の製造販売に全力を傾注し、星製薬所を創立した。最初は芝山内で、つぎは三田小山町(現港区)に移ったが、この「イイチオール」の製造を、薬学や化学には全く素人の星がやるのであるから、苦心惨憺たるもので、それにアンモニアを使用するため臭気が立ちこめ、近所から追出しをくう羽目におちいることも再三ならずあったという。この折、故郷の福島県平市(現いわき市)の人々を中心に、代議士に立候補するよう強く要請され、明治四十一年五月に施行された第十回総選挙に無所属で打って出、三十六歳で当選した。当時、無所属派には、三井銀行から大阪北浜銀行の頭取に転じた岩下清周、また後に昭和二年の金融恐慌のとき大蔵大臣をやった片岡直温らがおり、星の製薬事業の展開の上からも、有力な応援者となった。具体的には後藤新平・岩下清周・片岡直温らが匿名組合で、二万五〇〇〇円の資金を提供してくれたのである。かくて明治四十四年、資本金五〇万円の星製薬株式会社を設立、北浜銀行岩下清周からも融資をうけ、まもなく一〇〇万円に増資したときには、松方幸次郎や片岡直温、三井物産の山本条太郎らを重役陣に加えたのである(大山恵佐『星一評伝』星薬科大同窓会『星一先生の横顔』)。
創業時の星製薬は、当時の府下荏原郡大崎町下大崎一番地に三八〇坪を一ヵ月一二円五〇銭で借地し、そこに七二坪の工場を建てたのである。工場組織としては、調剤部(原料加工)、包装部(包装印紙貼付)、商品部(半成品、既製品取扱)、倉庫部(原料、製品貯蔵)、発送部(製品、原料輸送)をもって出発したが漸次盛況にむかい、明治四十四年五月には売上高は一ヵ月五、九〇〇円にも達したという。株式会社に組織変更したときには、敷地坪数は五九二坪にふえ、建物や資産も、社宅一棟(二四坪)、倉庫二棟(九二坪)、工場二棟(一〇八坪)、電話一個、器具機械三、六〇〇円という状況であった。従業員も、男工(各作業主任五名、男工調剤師二名、発送部二名)計九名、女工(事務員四名、包装及商品部四拾名、発送部六名)計五〇名という構成であった。明治末期の経営概況の一端を示せば、前表の通りである(『星製薬株式会社工場沿革史』)。
期別 | 収入合計 | 純益金 | 前期繰越 | 後期繰越 | 株主配当 |
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円 | 円 | 円 | 円 | 円 | |
明治45年上 | 13,203 | 2,895 | ― | 2,116 | ― |
大正元年下 | 34,976 | 4,891 | 2,116 | 1,883 | 4,375 |
(注) 星製薬株式会社『営業報告書』による。