日本ペイントの展開

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すでにのべたように、明治十四年第二回内国勧業博覧会に出品した茂木重次郎の新製品「油性塗料(調合ペイント)」はみごとに入賞した。もちろん、この陰には、現在の東京大学の前身たる東京開成学校理化学講座ドクトル=ワグネルの助手として、重次郎の兄春太が、苦心して亜鉛華製造免許をとったことが秘められている。同じ年に茂木重次郎ら三名は三田四国町に共同組合光明社を設立し、本格的な顔料および堅練ペイントの製造にのり出したのである。そして「紙幣整理期」の明治十七年には、光明社の売上金は二万円にも達した。翌十八年の工場焼失という不運にもめげず、明治十九年には皇居御造営のため白ペイント三〇〇坪分を献上、同二十年の東京府工芸共進会では二等賞を、同二十三年の第三回内国勧業博覧会には油ワニスを、日清戦時の明治二十八年の第四回内国勧業博覧会にはペイントを、それぞれ出品して三等賞をともに獲得している。その二十八年十月には、資本金六万円の光明合資会社に改組した。翌二十九年三月には、一〇万円に増資するのを機に、府下荏原郡品川町大字南品川に工場を移転新設したのである(『日本ペイント八十年史』)。

 ところで、日清戦争後の企業勃興期をふまえて、日本資本主義の確立がみられることは、繰返しいままでのべてきたとおりであるが、諸近代産業の勃興・発展につれて、各種の無機薬品の需要も増大したのである。光明社が取組んだように、たとえば、塗料や印刷インキの原料である亜鉛華・リトポン・鉛丹・弁柄・黄鉛などの顔料、マッチ原料の黄燐・赤燐・硫化燐・重クロム酸カリなど、洋紙のサイズ定着剤または浄水用の明礬・硫酸アルミニウム、紡績用糊の防腐剤である塩化亜鉛、絹や麦稈の漂白剤としての亜硫酸塩、染色助剤のクロム塩など、多種にわたっていた。つまり、明治十四年光明社が新規に生産を開始した鉛丹は造船塗料であり、同じく創製した紺青もインキ用であった(大蔵省印刷局では、すでにこれより早く、明治十年に紺青を製造している)。すでにのべた亜鉛華についても、明治十二年三月十八日付で、時の内務卿伊藤博文から、亜鉛華製造免許証が茂木重次郎宛て、発給されている。亜鉛華は、鉛顔料とともに塗料の原料だったのである(『日本無機薬品工業史』)。

 それゆえ、南品川への新工場移転とともに、光明合資会社は、帝国鉄道庁(現在の日本国有鉄道の前身)の指定工場となり、日清戦後の好況のなかで、民間鉄道・造船・海運などの勃興に伴い、塗料製品の需要もまた増大の一途を辿ったといえよう。しかも、明治三十年八月には、亜鉛華精製法が特許をえ、登録された。従来、酸化鉛・酸化カドミウムなど不純金属がまじっていたのを、この精製法により、品質についても含有酸化亜鉛を九六・七六%にまで高めることに成功したという。

 このような発展に対応して、同年十月には従来の組織を株式会社に改め、公称資本金四〇万円の日本ペイント製造株式会社としたのである。創立時の内容は、生産能力二〇〇万ポンド、生産高一〇〇万ポンド、職工約七〇名で、製品としては、亜鉛華・光明丹・リサージ=ボイル油・白亜鉛ペイント・白鉛ペイント・色物ペイント・ワニス類・絵具類の多種多様にわたっていた。なお取締役のなかには、品川区域内から、後述するように、品川銀行設立発起人たる宏仏海(明教保険株式会社長、三井物産山本条太郎の縁戚)・杉浦作次郎(品川電燈株式会社専務取締役)・相川小次郎(材木商)などの名前もみえている。またのちに、北海道炭砿汽船株式会社長となる井上角五郎、横浜の売込商でもある朝田又七、馬場汽船株式会社の馬場道久らも役員に参加している(『日本ペイント八十年史』、資四四四号)。

 さて、明治後期の経営概況を示したのが次表であるが、創立当初、明治三十二年後半から翌年にかけての綿糸紡績業を中心とする過剰生産恐慌のために、いったん二〇万円に減資したが、再び日露戦争の勃発により軍需用塗料の需要が増大したため、五〇万円増資を断行し、大阪府西成郡鷺洲町大字浦江の淀川べりに大阪分工場を新設、明治三十八年八月には早くも操業を開始した。この折、開業式に、ペイント缶で軍艦模型がつくられたのも時代の風潮であろうか。かくて、東西合わせて、工場敷地はおよそ一万二〇〇〇坪、建坪四、三〇〇坪、一、〇〇〇万ポンドの生産設備をもつまでに展開をとげた。経営概況をみても、製品売上高はのびていないが、純益金・後期繰越金・株主配当金など飛躍的に増大しているのである。また株主には、日本財界の雄であり、第一銀行を基盤にもつ渋沢栄一をはじめ、スコットランドのグラスゴー市のウォールセンド=スリップウェー造船所の副支配人であって、明治三十四年から大正三年まで横浜船渠株式会社(現在の三菱重工業株式会社横浜造船所の前身)の技術部長であったE=R=トムソンの名もみえるのであって、新興化学工業として注目をあつめ、また造船業との関連の深いことを示しているものといえよう(『横浜市史』第四巻上)。

第68表 日本ペイントの経営概況(円以下切捨)
年度 製品売上高 同増加比 純益金 同増加比 長期繰越 後期繰越 株主配当
明治33年 88,060 (100) 7,304 (100) 1,856 5,000
35  105,070 (119) 11,313 (155) 913 8,594 0
115,428 (131) 11,725 (160) 8,594 2,186 14,000
36  110,070 (125) 12,725 (174) 2,186 3,441 7,200
116,700 (133) 13,388 (183) 3,441 4,059 8,000
39  70,243 (80) 38,516 (528) 7,305 13,896 18,000
80,694 (92) 43,978 (602) 13,896 24,076 23,400
42  93,433 (106) 55,946 (766) 7,386 10,233 37,500
105,139 (119) 57,177 (783) 10,233 14,192 37,500
45  164,736 (187) 81,558 (1,117) 27,730 25,806 41,250
大正元年 176,503 (201) 96,506 (1,322) 25,806 32,837 45,000

(注) 各期『営業報告書』より作成。

 日露戦争後は、官民の需要の増大にともない、明治三十九年十一月には、資本金を一挙に三倍の一五〇万円とし、また同年の関税定率法改正により、輸入塗料に対して従来の倍額に相当する課税が実現したのを契機に、鉄道作業局ならびに逓信省宛て、官用品についての国産品採用を請願し、同じく東京商業会議所に対しても国産品の保護政策の実施方を建議してゆくのである。もちろん、これと対応して、品質改良や新製品の開拓にも努め、たとえば塗料用鉛丹と調合ペイント用濾過機の特許をうけたのをはじめ、農商務省からの依嘱であった「船底防穢用塗料」も完成、特許をうけ、もはや外国塗料と何ら遜色ないまでになったのである。