藤倉合名会社防水布製造所と明治護謨製造所の創設

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J=B=ダンロップが「空気入りタイヤ」を発明したのは明治二十一年であるが、同じころにはゴム風船が盛んに輸入されるようになったという。それもシンガーミシンの宣伝用としてミシンにつけて輸入され、中流以上の家庭に愛玩されたという。

 これより少し前、明治十八年ごろ、現在の藤倉ゴム工業の創設者の一人ともいうべき藤倉善八は、神田淡路町で内職におわれていたころ、絹を平たく編んだ安田掛(あんだがけ)という根がけ(丸まげや島田の根を飾る組紐)を考案した。これが藤倉電線製造の濫觴となり、導火線ともなったものである。不況の年、明治二十三年に、藤倉善八の末弟、松本留吉がアメリカから帰国、いっしよに、電線製造業に協力することとなった。この頃には、明電舎の項でふれたように、三吉工場から、被覆線の注文をうけるまでになっていた。従来は、単に銅線の上に横糸を巻きつけたコイル線(今の綿捲線のこと)であったが、この上に絶縁塗料を施し、その上に木綿のブレードをかけ、同じく絶縁塗料を施すことが、藤倉兄弟の仕事であった。このころ、工場の労働者は、男工五名、女子七名の合計一二名であったという。しかし、次第に機械を動かすために動力が必要となり、ちょうど新宿の御料地(現在の新宿御苑)のなかの製糸工場の建物が不要になっていたので借用し、玉川上水による水車に依拠したという。これが契機で、同二十三年九月には、千駄ヶ谷九〇〇番地に徳川家所有の水車をみつけ、ここに電線工場(約一〇〇坪)を移転した。だが事業の発展につれて、工場が手狭になったことと、ゴム練ロールに必要な硫化のためには蒸汽機関が必要となった。偶然にも同じ千駄ヶ谷九二二番地に金丸製糸工場が空いていたので、これを買入れて、明治二十九年六月に移転した。この工場は九五〇坪あったので、すべての工程を一工場内でみることができるようになったといわれている(『松本留吉』)。

 日清戦争の勃発は、軍需用ゴム製品の生産を刺戟することとなったといわれている。つまり、エボナイト製の野戦電信用碍子・火薬箱・火薬管などの需要が急増して、ゴム製造業者たちは繁忙を極めたという。このようなエボナイト部分品・型物・大砲の弾器をつくって、逓信・海軍・鉄道の各省に納入していたのが、明治二十五年にできた東京護謨製造合資会社で、西大久保(現新宿区)に掘立小屋の工場(職工は男一名、女二名計三名)をもっていたが、一時休業ののち、明治三十五年には、米井源次郎商店がそれをひきうけ、北品川東海寺畔に移り明治護謨製造所と改称したのである。資本金五万円で、イギリスのマンチェスターから機械を輸入し、イギリス人技師をも招いて、板ゴム・ホース・自転車用タイアの製造を開始した。当初は鉄道用品の製造や、パッキングなどを納入したがうまくゆかず、漸次鉄道用窓受ゴム・真空制動機用ゴム管・機関車給水用管にも手をひろげていったという。とくに、明治三十六年に試作した自転車用タイヤというのは、ダブル=タイヤでチューブをいれて使用したといわれ、兵庫県下での陸軍特別大演習で試用したところ、成績良好であったという(『日本ゴム工業史』第一巻)。

 明治三十四年十月には、従来の藤倉護謨電線工場が、藤倉善八が逝去したこともあり、その遺志をついで、資本金二万五〇〇〇円の藤倉護謨合名会社を設立、あわせてゴム引防水布の製造をも始めた。このように、日露戦争前後から本邦電気事業が勃興期に入り、電話・電信・電燈・電車といったように、電気の利用が活発化したので、同社も明治四十三年には、資本金五〇万円の藤倉電線株式会社に改組、同時にゴム引防水布製造業を分離して、資本金一〇万円の藤倉合名会社防水布製造所を設立、工場を府下荏原郡大崎町大字上大崎二五一番地に移転したのである。この間、明治三十八年には、レインコート・空気枕等の製造販売を、こえて明治四十一年には、横須賀海軍鎮守府衣糧所から潜水艇用防水服製造工場に指定され、さらに明治四十四年には、飛行機用翼布の製作や、日本橋久能木商店発売の氷枕・氷嚢の一手製造をひきうけている(『日本ゴム工業史』第一巻、『藤倉ゴム工業株式会社年表』)。